項目は3つ
○自分「真理」ではなく主の「真理」に生きる
○状況を理解し自分の腑に落ちるように解釈しない
○「結果」ではなく「道草」が本質
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○自分「真理」ではなく主の「真理」に生きる
「信仰」という言葉よりも「信頼」という語が自分はしっくりきます。
道徳や哲学に置いてもそうですが、「口で言うのは簡単だけど」となるのは、
本能(≒デフォルト、古き人)が求めている事柄と理性(≒新しい人)が求めていることが相反するからだと感じています。
決して、焦らず、倦まず、向き合い、自分の肌感で捕らえていくしかないと思う。
勿論、これは神聖な領域は自力でどうにかなるわけではないので、主に向き合い、訴え、願い求めるに尽きると。
なぜ、あなたがたは再び打たれ、背き続けようとするのか。
頭はどこも傷つき、心はまったく弱り果てている。足の裏から頭まで健やかな所はなく、生傷、打ち傷などの傷は膿も出されず、包まれず、油で和らげられることもない。イザヤ書 1
主は良き時に上げてくださる。それを待たずに勝手に足掻いてもどこにも行けないし、また傷が増える。
漠然にはもうビビらなくていいんだよ。
最初の2、3回越えれば随分楽になるから、目瞑ってでも飛び降りて1つ1つ感じていきたいな思います。
○状況を理解し自分の腑に落ちるように解釈しない
古き人は、一事が万事「因果探し」に夢中だなと感じる。
それは、生存する上で磨いてきた立派な武器であるともまた思う。
しかし、主のデザイン は被造物である人の手の届く領域にはないもの。
故に、それはいつでも「的外れ」に終わります。
子どもがよく全てに「なんで?なんで?」ってなる時期がありますが、あれは歳を重ねてもずっとあるんじゃないかなと予想します。
違いは「都合よく腑に落とせるこざかしさ」スキルを持つか持たぬかかなと。
why?に回答しない勇気。
基、どうせその回答は自己解釈というとても貧弱な領域展開であり、かつ自分を安心させる為に生まれた虚像でしかない。
それでも人は穴埋めしたがる。
「わからない事」は「不安」だから。
でも。「わかる・わからない問題」は、「わからない」に辿り着きます。
自力ではなく、信頼するに値する「愛」に身を委ねる「勇気」
自分で書いておいてまだまだ小心者です。
そして、体得していく程、神経は研ぎ澄まされ、視野も広がっていき広範囲を見渡せるようになる。
その度に、どんどん愛の背中は大きく高くそびえる。
まるで、成長する程、親のおおきさを感ずるように。
パウロが自らを「罪人の頭」という自覚を持っていた事の真意に少しだけ触れられた気がした。
○「結果」ではなく「道草」が本質
安易に得た物などに価値はない所か害になることも多分にあると思う。
何事も「辿り着くこと」より「辿り着き方」
結果や形といった類のものなど、不意に振り返った際に、そういやいつの間にか〜
といったくらいの付き合いが相互で健全なんじゃないかななんて思ったりします。
あたりまえの話ですが、「結果」というものは、そこに至る「過程の結晶」なわけで、
中身である「プロセス」が蔑ろでは話にならない。
そして「結果」「形」といったものの本質は「得ること」より「持ち続けられるか」だと思う。
なので、死んだ後にそれはend rollでの楽しみして、今はただ「進みましょう」
どーせ、具体的に見える物など取るに足らない物ですから。
そして内側に灯る炎に薪をくべていれば
その暖かさを感じられる場面が、思いもよらぬ形で訪れたりもします。
そしてそれは十二分に気持ちがいいです。
拙僧のない思想、行動、言動は主の軍団として、誇りでやめましょう。
あなたが進んで聞き従うならば、地の良き実りを食べることができる。
あなたが拒み逆らうならば剣の餌食になる。
主がそう語る。
イザヤ書 1
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つくづく、愛と勇気の物語。
がんばれ俺。そして全力で主に乞え。
忘れていい。またついつい同じミスリードに誘われてもいいから、
どうかなるべく罪を犯す前に、決して自力ではなく、主に訴えて欲しい。
以上