今回の2つ
🔳厄介なのは、人の手(肉の手)が汚してしまうということ。
🔳「形」より大切な「気概」
🔳厄介なのは、人の手(肉の手)が汚してしまうということ。
あなたがたはめいめい、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はキリストに」などと言い合っているとのことです。
キリストはいくつにも分けられてしまったのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。
あなた方が洗礼を受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 1ー12
大義を見失っては元も子もない。
どんなに神聖だろうと、どんなに美しかろうと、どんなに素敵だろうと、
「バカとハサミは使い様」だと思う。
まるでかけ算の様に、神聖である程、美しい程、穢れた者が扱おうとすればたちまちそれは穢れたものとして映る。
それ自体は決して汚れないが。
物に置き換えてもそう。
どんな服でも、車でも、スポーツでも、ダサい奴らが手を出せばそれは一気にダサく映る。
こんな悲しいことがあるだろうか。
私さえ汚れていなければ素敵だったなんて。
そんなのが嫌だからこちらは闘っている。
「うつくしいものを美しいと思える あなたのこころがうつくしい」
相田みつを
そんな言葉が浮かんできた。
そしてまた、
*例外なく、遺伝子でautomaticに継いでいるものとして、
我々の手持ちには倫理なんか無いことを肌で感じる。
それから目を離さないこと。
これは骨が折れるが不可欠。繰り返し、習慣として、「習慣」を見方につけるべし。
🔳「形」より大切な「気概」
敬うだのなんだの、教会に行く、聖書を読むだの読まないだのといったよりも大切なこと。それは「思い」や「行動」つまり「気概」だと思う。
自分自身、深く思うが、これだけあって未だに色欲に支配されたり、怒りに支配されたり、損得感情に苛まれたりetc
情けない。どんなに頭で分かっていようが、感銘を受けていようが、
行動に伴っていなければ結局「つもり」の範疇から出ていない。
こう言うと「律法主義者だ」「義とされるのは信仰なんだ!お前はわかってない」と言われるやもしれない。
しかし、それは違うと思う。
だからこそ「行動」なんだ。「気概」があるのならば変な話 嫌でも形として出るはずだから。
おそらく、どこまでいけど主の教えに「全て」完全に応えるのは困難だろうと思われる。
ただ、だからといって「義はあくまでも(信仰)による」
「だから信仰していれば正味なんでもいいんだ」
んなわけない。
というか、そんなこと何より自分自身が一番わかってるはず。
真剣な人ならば、の条件付きではあるが。
その「気概」がある限り。
そして、その「信頼」が主に対してある限り
時に「膝を地面についてしまって」も「試みの真っ只中にて嘆き踠いて突っ伏してしまって」も導いてくださる。
もっと言えば、あえて言うが
「どうせ、死ぬんだ」
「主が正しい?正しくない?」わからなくなろうがならまいが、
お前自身をこの人生ゲームのmasterに置くよりは「マシ」なんじゃないんでしょうかね?
千差万別あれど、主に、イエスに向かって求め手を伸ばした根っこはここにあるんじゃなかったでしょうか?
まぁ、色んな人がいるから知りませんが、自分自身はそうです。
「マシ」なんて言い方罰当たりでしょうかね?
いつしかまで私は、「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言えない人間はロクなもんじゃないと線を引くボーダーの1つとしていました。
しかし今は違います。
たとえ「ごめんなさい」と言葉にしなくても、「ごめんなさい」と人は言えます。
勿論、言うことも大切です。
しかし、求めるべきは「本質」です。
但し、学校、会社、みたいな「一般社会」が求めてくるのは「うわべ」です。
嘆くな。学べ。いい機会だ。
そこで自分が少なからず重なる部分を見出したなら早急に修正。
見当たらなかった場合は「喜べ。踊れ。笑」
言われなくても内側から湧くよね。
それと夕日が堪らなかったりしてね。
あとがき
「神の国は’言葉’ではなく’力’にあるのです」
パウロの言葉ですね〜。
言葉は大切です。
知識も大切です。
しかし、行動になっていなければ「虚しい」なと感じます。
時として?多くは?なのかな、目立つからかもしれないが、
その「虚しさ」との日々だったりしますね。
それでも、私がこの世で生きているのは主が「自殺ダメよ〜」と仰っているからだけでは決してありません。
主の言葉の下に、愛に、人間でいられた時の1分1秒が輝いている気がするからなんですね〜