『詩篇』内容 (詩篇1〜15)
詩篇1
1.いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず2.主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。3.その人は流れのほとりに植えられた木。ーときが巡り来れば実を結びー葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。4.神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5.神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6.神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
詩篇2
1.なにゆえ、国々は騒ぎ立ち人々はむなしく声をあげるのか。2.なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか3.「我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう」と。4.天を王座とする方は笑い主は彼らを嘲り5.憤って、恐怖に落とし怒って、彼らに宣言される。ーーー11.畏れ敬って、主に仕えおののきつつ、喜び躍れ。12.子に口づけせよ主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか主を避けどころとする人はすべて。
詩篇3
6.私は身を横たえて眠り、目覚めます。
主が私を支えておられるから。
7.だから私は決して恐れません
詩篇4
3.人の子らよ、わが栄光の主をいつまで辱めるのか。
空しいものを愛し、偽りを求めて。
4.主の慈しみに生きる人を主は見分けて呼び求める声を聞いてくださると知れ。5.おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語りそして沈黙に入れ。6.義の生贄を捧げて主に信頼せよ
9.平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしを安らかに住まわせてくださるのです。
詩篇5
6.驕る者は、あなたの前に立つことは出来ません。
あなたは、悪事を働く者全てを憎み、
7.偽りを語る者を滅ぼします。
血を流す者と欺く者を主は忌み嫌います。
8.しかし私は豊かな慈しみによってあなたの家に入り、
あなたを畏れ敬いつつ、聖なる者にひれ伏します。
ーーー
12.あなたの下に逃れる全ての者が喜び、
ずっと喜びうたいますように。
詩篇7
9.主よ、私の義と潔白にふさわしく私を裁いてください。
10.悪き者の悪を絶ち、正しき者を堅く立たせてください。
11.神こそ正しき方。
心と思いを試す方。
12.神はわが盾。
心のまっすぐな方を救う方。
13.もし人が立ち帰らず、剣を研ぎ弓を引き絞って構えても14.自らに死の武器を備え火矢をつがえることになる。15.見よ、その人は悪事を宿し害毒をはらみ、偽りを生む。16.落とし穴を掘り、深くしています仕掛けたその穴に自分が落ちますように。17.災いが頭上に帰り不法な業が自分の頭にふりかかりますように。
詩篇8
4.あなたの指の業である天を
あなたが据えた月と星を仰ぎ見て。思う。
5.人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう6.神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ7.御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。8.羊も牛も、野の獣も9.空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
詩篇9
10.主は虐げられた人の砦
苦難の時の砦。
11.御名を知る者はあなたに信頼する。
主よ、あなたは尋ね求める人を見捨てなかった。
ーーー
19.苦しむ人の希望が滅びることは決してない。
詩篇10
3.悪き者は自らの野望を誇り
貪欲な者は主をたたえながらも侮っている。
4.悪き者は鼻高々で神を尋ね求めず
「神などいない」とあらゆる謀(はかりごと)をたくらむ。
5.あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち自分に反対する者に自分を誇示し6.「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで災いに遭うことはない」と心に思う。7.口に呪い、詐欺、搾取を満たし舌に災いと悪を隠す。8.村はずれの物陰に待ち伏せし不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。9.茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ貧しい人を捕えようと待ち伏せ貧しい人を網に捕えて引いて行く。10.不運な人はその手に陥り倒れ、うずくまり11.心に思う「神は忘れているのだ顔を隠し、永久に見るまい」と。12.立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。苦しむ人を忘れないでください。13.なぜ、悪しき者は神を侮り「神は咎めなどしない」と心に思うのでしょう。14.あなたは苦しみと悩みを御覧になって御手によって救おうと顧みてくださいます。不運な人はあなたに身を委ねあなたはみなしごの助け手となられた。15.逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き彼の反逆を余すところなく罰してください。16.主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。18.この地の人が二度と脅かされることがありませんように。
「悪しき者」や「逆らう者」、「貪欲な者」様々いますが、
これは自分自身の中にもよく見かける者達です。
純度100の真な心、全き心で主を信頼する、「愛」を体現するというのはほぼ不可能と思っていいのではないかと思います。
それに少なからず自覚の上で「可能」だと評価するのはまた違う気もします。
なので、ある程度はテキトーでいいやという訳じゃなく、
ベストを尽くすことを心がける。
「イエス」ならどうするだろう。どう考えるだろうと。
そんなことを1つ1つと向き合っていけば、気づいたら死が訪れる。
自分との約束くらいは守れたら気持ちがいい朝が迎えられる気がします。
詩篇11
3.礎(いしずえ)が崩れてしまっては
正しい人に何ができよう。
ーーー
5.主は正しき者を調べる。
ーーー
7.主は正しき方。
心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る。
詩篇12
2.主よ、お救いください。忠実な人が消え真実な人は、人の子らの中から消え去りました。3.人々は互いに空しいことを語り滑らかな唇で二心をもって語ります。4.主よ、すべて滅ぼしてください滑らかな唇と威張って語る舌を。5.彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」6.主は言われます。「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」7.主の仰せは清い。土の炉で7度練り清めた銀。8.主よ、あなたはその仰せを守りこの代からとこしえに至るまでわたしたちを見守ってくださいます。9.悪しき者が、わが物顔で歩き回り人の子らの間で卑しむべきことがもてはやされています。
詩篇の書かれた時代の情報については、
古代イスラエル史の前王国期(前11世紀以前)のものから,王国期,捕囚期,捕囚後(前6~前3世紀?) までの1000年余にわたる各時代に作られた
とのことなので、少なくとも2000年以上前と言えますが、
聖書の書かれた時代から見て今の人間に思うこと。
「ほんとお前、昔っから変わんねーよなぁ」
少女漫画のセリフみたいなのが浮かんできます。(少女漫画まともに読んだことないけど)
変わったのは目に映るものだけだと感じます。
詩篇13
2.いつまでですか、主よ。わたしをとこしえにお忘れになるのですか。いつまで、御顔を隠されるのか。3.いつまでわたしは魂に思い煩いを心に悲しみを抱き続けるのですか。いつまで、敵はわたしに対して高ぶるのですか。4.わが神、主よ、私を顧み答えてください。私の目を光り輝かせてください。死の眠りに就くことのないように。5.私が揺らぐのを見て敵が勝ったと言わず私を苦しめる者が喜ぶことのないように。6.あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り主に向かって歌います「主はわたしに報いてくださった」と。
詩篇14
1.愚か者は心の中で言う。
「神などいない」と
詩篇15
1.主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り聖なる山に住むことができるのでしょうか。2.それは、全き道を歩み、義を行い心の中で真実を語る者。3.舌で人を傷つけず友に災いをもたらさず隣人をそしることもない。(3.舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。)4.主の目にかなわないものは退け主を畏れる人を尊び悪事をしないとの誓いを守る人。(不利益な誓いでも翻しはしない。)5.金を貸しても利息を取らず賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう。
「神様は100%いる」とまだ断言出来そうにない私は不敬虔であろうか。
しかしだからと言って「どうでもいいや」なんてスタイルはナンセンスだなと言う思いだ。
「神様が、主がいてくれたらいいな」と思い、また、
ニュアンスとして私個人は”神様”とかよりも「主≒愛」がしっくりくる。
※ゲームとか諸々のフィクションのせいでどうもね
まぁ、そんなことはしかしどうでもいいことだとも一方では思っている。
そもそも、主のこと、そして「愛」は「人の子」に理解できる領域にはないと思うからだ。
今の素直は思いは”盲信”したくないし、
目の前の課題を一歩、一歩と進めたい。
心から信頼したいからこそ、イタズラに「いるんだ」と信じようとは思っていない。
第一、それもまた我々の労苦(≒労苦、努力)で全てがどうにかなると言うのも立派な高慢じゃないだろうかと思ったりもする。
それもそうだ。
だって相変わらず「不安」により余裕が無くなってみたり、
「怒り」が沸き起こったり、「欲望」に支配されたり。
そんな”ワタシの世界”じゃ見れる神も見れないだろうに笑
高ぶらず、穏やかに、主の道を歩めるのこそ「愛」あっての
「主の言葉」導きあってのことなんであろうから、
気張らず、やれることを1つ、乗り越えたら次に見えたことを1つ
そうやっていけたらどうだろう。
真理の道を歩むことは簡単なことではない。
何が厄介かと言えば色々あるが、例えば3つ挙げる。
○セルフで「客観視」がしにくい(ほぼ不可能と言っていい)
○「理性」とは相反する欲望という大きな求心力が働く
○「真理」は先天的に備わっている諸機能とは異なる指針であることが多々ある。
などなど。
しかし、諸々含めそれらに”苦しみ歩む”ことが真理の姿であると自分は思っている。
別に私が脳筋ストイック派だからそう思うわけではない。
イタズラに痛めばいいというワケではなく、
それが相対的に見て高度な「知能」を手に入れた生物をあるべき姿なのではないかと考えるからだ。
他の動物からしたら人間などお笑い種だろう。
「将来が不安だの」「恐くて向き合ってない問題がある」だの。
今日食えるか食えないかの世界。
「今日生き残れるかどうかの世界」に暮らしていたならば
憂鬱になっている余白など当然ないわけで、
もし憂鬱であったならばそれは即「死」直結するだろう。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
この場合、どこが「過ぎ」で「過ぎじゃないか」は一旦置いておいて欲しいが、
ともあれ、物事は表裏一体が世の常だと思われる。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
少なくとも紀元前4世紀にはダモクレスの剣の引喩にあったとか。
誤魔化して、答えも出ないし分からない。
なら考えても仕方がないと無視するのが一般的と思うが、
それはどうなんだろうと思う。
そうして良い着地ができるのならいくらでも是非を問わずそのようにしたい。
以上