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聖書読解⑦【テサロニケの信徒への手紙】

はじめに

今回は「テサロニケの信徒への手紙1、2」より展開していきます。

 

神に喜ばれる生活

淫らな行いを避け、おのおの気をつけて、自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはなりません。〜

ですから、これらの命令を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の精霊を与えてくださる神を拒むことになるのです。

テサロニケの信徒への手紙1ー4

この手紙を書いていた’パウロ’は 西暦64〜67年に亡くなられたとされている。

今からちょうど2000年前くらい。遠い昔のような、つい最近の様ななんとも不思議な感覚になるが、、

※ちなみに...
【西暦1年は、日本は弥生時代後期にあたります】 弥生時代は、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

 

2000年前の人間と、同じ信念を抱いている事実に個人的にはとてもロマンを感じずにはいられない。

記録というものは、非常に有意義なものであり大切なものだなと強く思えます。

月並みな話ですが、芸能人、政治家、一般人とジャンル問わず不倫、猥褻等の話題は事欠かないです。

引用文からわかる通りそしてこれは、時代の垣根も国の垣根も超える「普遍のテーマ」と言えます。

自分もそう書いている今さっきまで、実体無き性衝動の波がそこらへんユラユラしていましたが。。

やはり、これは純粋な異性欲求だけではなく、付随する性的快感(≒エクスタシー)への欲求力だと考えて粗方間違っていないと思います。

そしてなぜエクスタシーを求めるのか。それは「イライラしたり不安だったり」といった欲求不満を解消する為。

「休日一人で家にいる時はムラムラしやすく〜」なんて記事もオナ禁関連のブログによく見かけますが、そんなことよりも、数段、「考え事に耽る」機会が増えるからだと推測しています。

※確かにリラックス空間にいるからという理由もあると思いますが、、

いづれにせよ、そんなことをしても何の解決にもならない所か、神が、愛が、自分(

≒理性)が離れてしまったと感じる程、苦痛なことはありません。

もうそのような肉による身体は、十字架にかけられ、罪と共に滅びました。

それは、自身もまた例外ではありませんので。。

わたしはこの安息に変わるものは何物も無いと悟ったので、どうかあまり試みを強められないでくださいと願うと共に、起こるべきように起こって欲しいと祈ります。

盗人が夜来るように...

主の日は、盗人が夜来るように来るということをあなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ。安全だ。」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように。

突如として滅びが襲ってくるのです。決して逃れることはできません。

しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。

ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことは決してありません。〜

ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

テサロニケの信徒への手紙1−5

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。
気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。
すべての人に対して寛大でありなさい。 
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 “霊”の火を消してはいけません。 預言を軽んじてはいけません。
 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
テサロニケの信徒への手紙1−5(後半)



おわりに

どっかの記事でも触れたかもしれませんが、人間は姑息でズル賢く、道徳も倫理もあったもんじゃないからこそここまで知能が発達し進化してきたという一面はあると思います。

しかし、その結果どうでしょうか?

何十万年、何百万年前の先祖が渇望したその「知恵」という力が生み出した「軍事力」により人同士で殺し合いをしています。

なぜ戦争をしているのか。それは相手を許す「寛容」もなければ、隣人を愛する「 愛と勇気」も無いからです。

キリスト教という宗教信仰が絶対正義だとはわたしは思っていません。

しかし、聖書で語られている信念や思想には少なからず人類が向かって欲しい次のステージ、夢があると思っています。

その変遷期に今自分は生きていて、かつ、並々ならぬ思いでその希望に生涯を捧げた先人達のおかげで今の自分でいられてます。

時代を超えて、バトンを引継ぎ、また後世に繋いでいく。

神は勿論のこと、受肉したイエスや、パウロ、その他聖書の登場人物に限らず、個人的に尊敬している、ヒルティーセネカに「おぉ、やるじゃん」って言ってもらえるようになんて思ったり。

「どうか、主があなたがたの心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように。」