まえがき
今回「聖書」を主軸にしたブログだからこその意義も見えると思い、
「ニーチェの思想」に触れてみようと思う。
自分の思考をまとめる為のノートを作るにあたり、第三者が見ても分かるようにを意識すればまとめやすいのではということ、
そしてまた、まとめサイトや解説ブログなど既に分かりやすいサイトはたくさんあるとは思うが、自分の意見の展開をしているものは見当たらなかったので、自分でも記事のネタがてらまとめノートなるものを作成してみようかと思い始めてみます。
※こういうのがあれば分かりやすいなど思う所があればコメントもぜひ。
また、「ニーチェ 解説」とGoogleで検索すると上位表示される「入門」とか「早わかり」、「ざっくり解説」「名言集」のような形ではなく、
「ニーチェの思想や考え」、私の「考察と意見」
この2つの軸で”ゆっくり”連載記事のごとく書いていこう思っている。
なので、”効率良く時短で本を読まなくてもニーチェの主要箇所が分かるっ!!”みたいなとは真逆を進めます。
そもそもがあくまでもこの記事限らずこのブログ自体、「自分のまとめノート」というのが主軸なので「気長に」こそ楽しめるように綴っていこうと思う。
なにより、第三者に読んでもらうことを第一義的に書かれていないからこその趣きが自分は好きです。
本は難しいし、読みにくくてチャレンジ出来てないとか、
読んでみたけど、文面が読みにくく断念したけど興味はある人とか
その他色々、どんな人でも、少しでも「ニーチェ 哲学」について有意義になるブログができたら幸い。
(以下、wikipediaの構成参考および引用)
人物
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)
享年55歳
※同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。
プロイセン王国(現ドイツ)出身
古典文献学者
「実存主義」とは?
個人の存在、自由、選択の重要性に焦点を当てる哲学です。
19世紀〜20世紀にかけて主にヨーロッパで発展。
従来の哲学では、まず「人間とは何か」「人間は何をすべきか」という本質的な問いがあり、そのうえで個人の存在があった。
例えば、
「ハイデガー」は、人間は他の動物や物体とは異なり、決断によって自分の存在の在り方を自由に選択できる唯一の存在(=現存在)であると主張しました。
「キルケゴール」は、誰から見ても正しい客観的な事実ではなく、自分にとっての主体的真理を追究することが重要であると主張し、実存主義の先駆けとなりました。
この世界を至って主観的に捉える思想体系。
※詳しくはリンク先で読めます。
少年時代
小さな村レッツェン・バイ・リュッケンに生まれた。
ニーチェの父親はここの牧師でした。彼が生まれた家は今も残っています。ニーチェもこの町に埋葬されている。
父は、ルター派(キリスト教)の裕福な牧師で元教師であった。
2歳下には妹エリザベトが、4歳下には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。
ニーチェが4歳の時、父カール・ルートヴィヒは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かず、つまづき玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打ち付けた。
翌年この時の怪我が原因で死去した。また、それを追うように、まもなく2歳の弟ヨーゼフが、歯が原因とされる痙攣によって病死。
男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師(叔父も牧師だ。)を頼って故郷レッケンを去りナウムブルクに移住。また、二人の伯母も家事や食事などに協力した。計6人での生活が始まった。
ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代が幸せだったこと、その後父や弟が死んだ時の悲しみを、ギムナジウム時代(高校時代)に書いた自伝集で綴っている。また伯母や祖母の死もあったこと、そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えてきたことを語る。そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた。神に関しては、この時代はまだ信仰していた事がわかる。
「神は死んだ」)とは、宗教批判と虚無主義(ニヒリズム)を意味するニーチェの言葉。
一種の科学的精神(啓蒙的・実証的・合理的精神)であると言われる。
近代化・産業化・科学化の中で、ニーチェは宗教的・哲学的観念の滅亡を宣言した。
ニーチェの批判は、医療科学・自然科学や生物学から大きく影響を受けたと考えられる。
ニーチェによれば、神・霊・魂といった虚構によって、栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた。
神が死んだ(そして神を冒涜することも出来なくなった)からには、最大の問題は地上やからだを冒涜することである。
ここでニーチェは、「超人」とは地上的・身体的な人間であると述べている。一方で、超地上的・超自然的な事柄や魂といったものは、不健康な嘘だとしている
※最後の「超人」はニーチェの主要用語の為、後に取り扱う。
※「ニーチェによれば」からの内容がものすごく「ニーチェっぽい」
本人だから”ぽい”も何もないんだが。
ある雨の日の話
市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。
まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、下校時にわか雨が降ってきた。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも拘わらずニーチェは一人雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。
心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と聞いたところ、ニーチェは「校則に”帰りは走らず静かに帰れ”と書いてあるから」と、述べたという。
このエピソードは、よくニーチェという人物の”生真面目さ”と結び付けられて語られている。
エリーザベトの兄(ニーチェ)への思い
エリーザベトが残した文からエリーザベトが兄への尊敬の念を持っていたことも分かっている。その理由は、兄の人格が誠実で嘘を憎むからであり、さらには活発で抑えのきかない自分に自制の心を教えてくれたからだという。
さらに、エリーザベトは6歳の頃から、兄の書いた文を集めていたことがわかっている。エリーザベトは、ニーチェ文庫を創設しており、彼女が集めた文書は兄の研究に大きく貢献した。
一方で彼女は、兄の遺稿をめちゃくちゃに編集したり、ナチスに宣伝したりした。その理由は、自身の名誉のためという説が強いが、こうしたエリーザベトの兄への思いも考慮して、兄への尊敬の念が行き過ぎてしまっただけなのだという見方をする者もいる。
青年時代
ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通った。
ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められていた。プフォルター学院に移る少し前、一人の伯母の死とそれに相次ぐ、祖母の死をきっかけにニーチェの母は移住することを決める。ニーチェの母は友達の牧師に家を借りる。ニーチェは勉強やスポーツに励み、友人であるピンデル(ピンダー)やクルークとの交流のおかげもあって芸術や作曲に長けていた。
その噂を聞いたドイツ屈指の名門校プフォルタ学院の校長から特待生としての転学の誘いが届く。ニーチェは、母や妹とのしばしの別れを惜しみながらも入学する事を決心。このとき、生まれて初めて、田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。
またニーチェは、プフォルター学院時代に、詩や音楽を自作し互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成し、その中心人物として活動した。
(青年時代は、とても後年に発狂して廃人のようになる影は見受けられない)
大学時代
1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェは大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。
そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事で、ましてや、夫を亡くした母にとっては、一家の一大事と考えた事も予測できる)。
ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのは、ダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』である。
また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったリッチュルと出会い、師事する。リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに、懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけている。
ニーチェは、このリッチュルのもとで文献学を修得している。そして、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する。このライプツィヒ大学では、ギリシア宗教史家エルヴィン・ローデと知り合い親友となる。
彼は、後にイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を執ることになる。また、1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。
ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があったと指摘される出会いが、2つあった。ひとつは、21歳の時に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったことである。
もうひとつは、24歳の時、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒに滞在していたリヒャルト・ヴァーグナーと面識を得られたことである。
ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。
バーゼル大学教授時代
ニーチェは1869年(24歳)で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招聘された。
(※若くても30代後半でなければ教授にはなれないことがほとんどの中、24歳というのは、異例の抜擢であったらしい。)
バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる。
本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる。
自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。終生の友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベックと出会ったほか、古代ギリシアやルネサンス時代の文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。
ニーチェ(27歳)は第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。『未来の文献学』という論文も出した。
しかし様々な理由からどちらも多数から悪評。
こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。
ワーグナーへの心酔と決別
生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なワーグナーのファンであり、大学時代にはすでにライプツィヒでワーグナーとの対面を果たしている。
やがての妻コジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、ワーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ。
ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、ニーチェはコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた。
近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという伝統があった
『芸術と革命』をはじめとする彼(ワーグナー)の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。
そしてニーチェにとって(またワーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそワーグナーその人に他ならなかった。
ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第一作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。
何故ならば、こんな出来事があったからだ。
1876年(ニーチェ31歳)、ついに落成した※バイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりをニーチェは感じた。
そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。
在野の思想家として
ニーチェは、病気の療養のために気候のよい土地を求めて、1889年(44歳)までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。(スイス、イタリア、フランス)
時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。ニーチェは、バーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることがあった。かつての生徒である音楽家ペーター・ガストはニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの生涯を通じて、誠実な友人であり続けた。
ルー・ザロメとの交友
ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。
ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。
ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。
彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。
レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年(37歳)から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。
後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。
結果として、ザロメとレーの二人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。
失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。
ショーペンハウアーとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。
ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。
1885年(40歳)には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その内7冊を親しい友人へ献本するだけにとどめた。
1886年(41歳)にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。
事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。
1886年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者と結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。
書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。
病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。
同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。
ニーチェは1888年(43歳)に5冊の著作を書き上げた。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。
この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。
狂気と死
1889年1月3日、ニーチェは騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。
数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナー夫人やブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では
「 |
「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」 |
」 |
と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、
「 |
「愛しのアリアドネ姫へ。/私が人間であるというのは偏見です。しかし私はすでにしばしば人間の下で生きて、人間の体験できる最低のものから最高のものまで、すべてを知っています。私はインド人の下では仏陀であったし、ギリシアではディオニュソスでした、――アレクサンダーとシーザーは私の化身であり、同じものではシェイクスピアの作者ベーコン卿に。しまいには私はさらにヴォルテールとナポレオンでしたし、もしかしたらヴァーグナーでも……しかし今度は勝利に輝くディオニュソスとしてやってきて、地を祝祭日となすでしょう……私に多くの時間は無い……天は私がここいることを歓喜します……私は十字架にもかけられてしまった……」 |
」 |
というものであった。(狂気を感じる。)
1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。
友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。
ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医に診てもらうことに決めた。
1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウスが治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。
フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。
1893年、エリーザベト(ニーチェ妹)が帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。
彼女は兄の著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を揮うようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。
1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、訪ねてくる人々に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。
1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。
ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトは兄の友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。
エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリーザベトの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった。
以上