はじめに
最後がいつだったか記憶にないくらい久しぶりに「夢精」した。
それもかなりリアルな感覚の性夢だった。
今までなんだかんだ、オナニーしなくても、性的な妄想に耽っていたりなんなりとしていたが、今回は真剣に捉えているので、夢精という形で肉欲が訴えかけているのかもしれないと思ったり。
というわけで、経過報告をレポートする。
意識がシャキッとしてる
1日を通して意識が覚醒している実感がはっきりとある。
顕著なのは、以前は食後はかなり眠気が強まるので昼にしろ夜にしろ大体その次の行動は寝るという流れだったが今は他のことに取り組める。
※もちろん眠気は来るには来る。
「おっぱい」などに物凄い求心力を感じる場面あり
まぁ、ここら辺に関しては言わずもがなといいますかって感じではあるけど。
しかし、これらはいい加減何度も出会っている波なので自分的には対処可だが、これが意外に尾を引いて、次の休日や土日にオナニーしてしまうといった事例は多いと想像する。
こればかりは、自分のオリジナルの感覚の中で付き合い方を見つけるしかないと感じる。
主に、愛にいられるように祈り願うことが一番容易かつ効果覿面かと。
ーここが重要ー
そもそもこの「肉欲≒煩悩≒罪≒性欲」との向き合い方において俗にいう「オナ禁」という姿勢での望み方は不適切であると考えます。
つまり、「我慢勝負」であるならばそれはもう実質オナニーと同義です。
自分も「オナニー」を「する or しない」で考えていた時期があるが、オナニーはあくまでも「肉欲の帰結である」つまり「ただの結果の形」に過ぎないということ。
聖書もその点は丁寧に、
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」
と述べている通りである。
その上で、今の自分の見解としては、罪なるものは「瞬発的な部分」ではなく、「能動的に弄んだ部分」だとしている。
つまり、ある異性を見て「ムラッとした」これは罪ではない。
しかし、その後引き続きお尻を見たり、胸を見たりetc,,,その「ムラッ」を2歩目、3歩目と歩んで行くことは紛れもない罪だと考える、ということ。
まぁ、しかし以前は何も考えずまたは良くないとわかっていても肉欲の奴隷となり耽っていた時とは異なり、なんだろう。「休息」を感じられというのがしっくりくる。
まぁ、なんせやっぱ欲情してる時のあの状態ってなんか生理的に不快だし、
自分の一番の理由は、人間には本能というプログラムの他に「理性」という余白を与えられているのに、その理性という余白が本能というautomaticな信号に呑み込まれるなんてことが人間として納得できないから。ですね。
ストレスと性欲は正比例
正直、手の届く範囲に個が最善を尽くせる項目はこの「ストレス」へのアプローチだと考える。
というのも、これは肉欲に向き合い感じたことだが、エロの求心力が高まるのは「イライラ」することがあったり、過去への「後悔」のフラッシュバックや未来への「不安」
こういった事柄が肉欲を誘い込む傾向がとても強いと感じている。
それはおそらく、「オナニー」の快楽物質の分泌に大きく関連していると推測してます。
ここに関しては、我慢というより「昇華≒代替」することが重要だと思う。
というか重要。
ただガマンだけでは、いずれそのダムが決壊してしまうのは自明です。
今まで安易に「オナニー」で快楽物質を出していたところを何か他のことで補うという話。
具体的に自分は「筋トレ」をしています。
これはかなりおすすめです。筋トレじゃなくても体を動かして汗を流すというは本来の姿だとも思う。
その他にもどのような事柄でもいいので、代替してください。
脳みそに「今までありがとな。でも(俺or私)もう大丈夫だから。心配しなくていいからな」ってちゃんと教えてあげることが大切になってくると考えます。
おわりに
大切なことを人は多々見失います。
こと「肉欲」の件についても同様。
大切なのは「たたかい続けること」だと私は言いたいです。
もちろんこれは。自分が折れる為の言い訳とかではないです。
自分の為にも、そして同じような思いを抱いている誰かの為にも
成し遂げようと思っています。
そして、「日数」に関しても経過報告上かいているが、あまり重きは置いていないです。
もうしないのだから数える意味もないわけだし。
誰が見てなくたって「自分と神様」だけは一部始終観てる。
最近自分のおじいちゃんが亡くなって久方ぶりに火葬後の骨を拾わせてもらったのだが思いました。
「人は骨になる身」
現代の平均寿命まで生きたって、たったの80年前後の人生。
何にも持って行けずに、まるで何者でもなく、何も持っていなかった生まれてくる前に戻るかのように人は土に還る。
「寝覚めの悪いことはやめよう。」
これに尽きるとつくづく思わされる場でした。
※この筆者は現在「肉欲」と向き合い10日目。