日曜投稿も今回で第10回。始めた頃は随意的でしたが今では当たり前のように生活の一部として組み込まれています。自然です。これを”習慣”というんですが。
1週間の中で感じたこと、聖書を読んで考えたこと等をまとめます。
1週間の中で感じたこと
⑴「高慢」「傲慢」が眼前の好敵手(ライバル)
自分的にここ最近の(それこそブログを始めた辺りの2〜3ヶ月前から)自分の生活であったり行動、思考は目指している像に過去よりも近い。
要因は様々だが、大きくは「肉欲」にかまけずに生きられているのがかなりデカい。
なんせ、ここのコントロール不全が精神的ダメージの大部分を担っていたから。
しかし、今までを振り返っても決してダメダメだったわけでは無く、「いいぞ〜」って場面も少なくない。
しかし、その「いいぞ〜」って状態の匂いに惹かれるようにセットになりがちなのが「高慢」≒「傲慢」つまり「高飛車」だ。
いい加減なもので、自分自身が自分自身に打ち負かされている、簡単に言えば自分の逃げ腰で色々うまくいってない(例えば、自分大事にしている条理や哲学に反した生活をしているなど)時は、相手に対しても比較的寛容でいられるのだが、今みたいに軌道に乗り始めると不寛容さが目立ち始める。
これは非常に良くない。しかし、過去のパターンとしてはこういう状況の自分にストレスを感じたり、その他諸々でもストレスを感じて、”性的快楽”に逃げ込むという流れなので、大事にしていきたい。
今の所の「高慢」に対する手札は、【メタ認知】≒【俯瞰して観る】
「高慢」になってるな〜っていう【俯瞰】を冷静に持ってそれを受け止め、焦らず考えを煮詰め、咀嚼していく。
決して簡単な問題ではないどころか、人類史のテーマレベルの問題なので、焦るどころか【誇りを持って】取り組んでいきたいと思っている。
そして、その経過及び帰結をここにまたレポートとして載せ、共有出来たら良しと望む。
⑵異常な現代〜電車内での人間はスマホor音楽or寝る〜
ふとJRに乗って周りを見渡すと、スマホ、スマホ、スマホ、、、、
確かにスマホは”ネット兼 SNS兼 新聞兼 読書兼etc”と複数機能を兼用しているので、100%害されている状況ではないが、90%前後はスマホ支配下にあると言って過言ではないだろう。
「最近の若い子はゲームばっかりで、なんちゃらこんちゃら〜〜〜〜」
って言ってたあの大人達は15年ぽっちで何処へ??w
本当に”老若男女”がスマホ漬けになっているのは由々しき事態だと真剣に思ったし、何よりも「なんておもしろい状況なんだ」と思考を掻き立てられる。
これには”脳のネットワークのクセ”と密接に関係があるよう。
まず、脳には「CEN」と「DMN」という2種類のシステムがある。
※以下、引用は下記サイトより。
○「CEN」とは
セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(以下、CEN)と呼ばれるもので、「こうありたい」とトップダウンで思い描く自分のありように向けて私たちを行動に促してくれます。脳の司令塔とも言われます。
○「DMN」とは
デフォルト・モード・ネットワーク(以下、DMN)。DMNもわれわれの行動を導いてくれるのですが、トップダウンではなく、過去に自分が振る舞ってきた記憶ベースで行動指針を示します。ある行動をとるとそれに伴うエピソードが脳に刻まれていきますが、その記憶にしたがって無意識的に誘導してくれるのがDMNの働きです。
例)通勤路や通学路で毎回、「次の信号は右で、次は、、」なんて考えなくても無意識に歩いたり、運転してれば辿り着く。
旅行先などで初めての歩く道や運転する路はそうはいかないです。
そして、「知らず知らずのうちにスマホを触ってしまう理由について」はこのように説明されています。
DMNは記憶化されているのでエネルギー効率がいい。負荷がかからないので脳にとっては非常に楽です。一方、CENは新しい情報処理をすることが多いのでエネルギーをたくさん使います。そのため脳は放っておくと負担の小さいDMNを使いたがるのです。
スマートフォンには刺激的で魅力的な情報がたくさん詰まっています。スマホを使ってこうした情報を得ることを繰り返していると、脳は「スマホを触ると楽しい情報を得ることができる」というように快感を学習していきます。
これがさらに進むと、DMNの無意識的な働きにより、なんら求めていない状態であったとしても行動がそちらに誘引されてしまうことが起こります。これが「知らず知らずのうちにスマホを触ってしまう」状態だと考えられます。
便利なもの程、扱いは難しいです。
物事に絶対的な良し悪しはないのかもしれないですが、果たして「これでいいのか。。?」と感じざるを得ない事は少なくないです。
周りを見渡せば、スマホで検索するよりも本質的かつ簡易的に解を提示してくれる。
聖書を読んで考えたこと(マタイによる福音書)
マタイによる福音書10
「恐るべき者」
26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
まとめ
人は自分一人では完結できません。
セルフで行う【客観視・俯瞰】もあくまで「主観的」に客観視していると言ってしまうこと出来ます。
なので、友人や家族といった【信頼している】または【尊敬している】人間の声に耳を傾け、相互補完を行えることが大切だと認識します。
この世は「諸行無常」です。
うまくいったと思ったら転覆し、やれやれ,,なんて思ったらそのおかげで飛躍してetc...
いい加減、「常なるものは無いのだ」という真理を内・外共に理解し、
「晴れの内から雨天の準備をし、雨天時から雨上がりの準備をしていく」
という思考パターンを「習慣」に組み込みましょう。
※菜根譚より
以上。