はじめに
日曜日投稿を初めて第6回になるが、今回が今までで最もスッと抵抗なくだなー。
そしてこれは面白いことに、他の事柄においても大体この1ヶ月超えてもう1歩のこの辺りが体に馴染む経験をしている。
もう1つ、主が荒野にてサタンとした貪欲とのやりとりは40日。
つまり「習慣化」の境界線なんだろう。
なんて書きながらに思った。
この「書きながらに思った」によく出会うのはどうやら偶然じゃなさそうだってのも最近レポートを書く機会が出来て感じたことの1つだ。
⑴忍耐と寛容を
どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。
また、あなたがたが神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くす様に。
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ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
この福音は、天の下のすべての造られたものに述べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となったのです。
コロサイの信徒への手紙より
なんだろう、聖書に限らずだが、セネカやヒルティなど哲学者の渾身の言葉達にも感ずることだが、太字にした所の様なこう親近感が湧くようなというか、
「パウロもその時分に自分と同じこんな風な思いをしていたのかな」とか
誰にも共感されそうに無くかつ言語化しがたいなんとも言えない部分をドンピシャにブチかましてくれたりするとスゴく救われる。
同時にまた、だからこそ時を超えて同じ壁に向かった、しかも真剣に人生かけた人間が確かにいたんだなんて思えば喜びと同じだけ欲に負けている自分に情けないし、虚しさすら感じます。
だから、こう言うと少しおこがましい面もありますが、自分の尊敬している友や師は既に何百年も何千年も前に亡くなってるケースの方が割合多いです笑
でもそんな風に感じている人はきっと自分だけではない気がしてる。
「生きるってなんだろう」「人間らしさってなんだろう」なんて哲学を模索している人には特に。
⑵キリストにある生活
6あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。7キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。8人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。9キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 10あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。 11あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 13肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。18偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 19頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。コロサイの信徒への手紙より
しかしまぁ、これだけ聖書は言語のみでもこんなに伝わりやすく、しかもなるたけ主旨が偏向してしまわないようにされていても、カトリックだプロテスタントだ正教会だのやってる様を見る限りまぁまぁまぁって感じではありますが。
聖書を考えると見えてくるのは、どんなに論理的に誰にでもわかるよう言語的に記してもそれは奥底には届かないということだと思います。
しかし、これは言葉では。では無く「言葉だけでは。」が正確な解釈だと最近の自分は感じています。
言葉は時に強力で絶大な力を発揮しますが、と思えば場合によっては途端に色褪せて塵と化してしまうそんな性質を含んでいるように感じます。
結果的に言葉に限った話では無い題かもしれませんが、響いてくるのは「過程」ないし「背景」にあると感じてます。
イエスも結構な頻度で度々「カタチじゃねーんだよカタチじゃ」といったことに言及しています。
その度に、強烈な賛否をくらってます。
自分も今一度ここで再確認の場としようと思うが、
大切なのは聖書を読むことでも、教会に行くことでも、毎週安息日にこうやって途切れずレポートを書いて主と向き合うことでもありません。
You versionを毎日開くことでも無い。
「愛と勇気」
これがテーマです。
ここにしっかり根を張り歩んでいくならば、聖書は読まなくてもいいし、お祈りをするだのしないだのは手の届かない領域です。
じゃあ、どーでもいいのか。
いや、大事なこと。
人間は愚かだから、すぐに見失うし、わかっていても十字架にかけたつもりだった肉による霊に引っ張られたりするし、トントン拍子は傲慢エンカウント率爆上がりだしetc,,,
なので、最低でも1週間に1回、何曜日でもいいと思うが立ち返る日を設けて、よかった所やこれは良くなかったなど反省して、信頼できる相手がいるならば罪の告白を聞いてもらったりとかそうやって、100%とはいかない不完全な人間なりに、なるたけ清く、聖にいられるようにって。
↑に触れた通り何事も至る「過程」及び「背景」に愛と勇気があれば、どんな形に落ち着こうともそこはあたたかいと思います。
つまり「そこに”愛”はあるんか?」ズバリですね。
しかし、言葉というのは誰でも発せれますから、どの口がおっしゃってもまたはほざいても言いわけですね。
だからそういう意味でも言葉はあくまでも入れ物に過ぎないわけですね。
視るべきは、額面上の意味や形ではない。
「process」と「backbone」自分は大事にしています。