はじめに
今日からまた改めて聖書を読み、向き合っていきたい。
しかしニンゲンというのは本当に脆弱だ。
いつも予想値を上回っている。
だからもう上回らせない。
【人はどこまでも愚かである】
ということを受け止めた上で、この話を始めることにしよう。
マタイによる福音書を読解
⑴「離縁について」
4イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
5そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
6だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
9言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
10弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
11イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
12結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
⑵「金持ちについて」
16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
【「神」と「金」両方に仕えることはできない】というシーン。
青字にしている部分で青年は「そういうことは皆守ってきました」と言っています。
ここはもの凄くニンゲンを表していると思う。
なぜなら皆そう言うものの内実は守れていないですから。そしてイエスから完全になるための真理を教えられたものの受け入れられず逃避しました。
つまり、金持ちになるということは【天の国から遠ざかり、傲慢になっていくということ】
お金そのものが悪ではもちろん無い。
【しかし、貧しい人々がいるのを差し置いて自分可愛さを優先して他人を蔑ろにしているという状況は罪だと思います】
しかし、その事態を否定するつもりは個人的にはありません。
ただし、それは【極めて動物的所業であり、人間とは呼べない行為であることに違いはないと解釈しています】
まとめ
ニンゲン時代の罪は肉と共に十字架にかけたつもりでいても、全然ニンゲンを捨てきれていない自分の愚かさ・浅ましさに直面するこの頃です。
ケースバイなので全てとは言わないが、どうして貴方のような方が、、、という形の自殺をしてしまう人の気持ちがわからなくもない気がします。
生は儚いし、この身は愚かだし、己は至らなさに虚しさを覚えるし。。
しかし一方では、だからこそ【抵抗せず素直に死んじゃえばいいんだよな】、強いて言えばそっちの努力に尽力すればいいんだよなと痛感した。
自分の生を生きるのは辞めにして「愛に生きよう」とすることもまた「自殺」に他ならない。
ちなみに、医療が今みたいなレベルではない当時は平均寿命が30歳前後だったり、産まれてからの子どもが無事大人になれる確率なんかもめちゃくちゃ低かったりした。(七五三を祝うほどに)
その当時に比べればたくさんの人が死んでたはずの命の続き、いわばボーナスステージに今の自分はいるとも見れる。
そう考えたら、損得がなんだ、アイツがどうでコイツがどうしたetc,,,にかまけている自分に嫌気が差してこないだろうか。
第一、この身この命すら自分で掴んだものでもなんでもない頂き物であり、次の命へとバトンを繋ぐための一歯車に過ぎないというのに。
楽しもう。
どうせ我々など何もできず、何もわからず死んでいくのだから。
【愚か者が己を愚かと知ればその者は賢者である】
反省でした。
以上。