はじめに
この一週間の振り返りと感じたことや考えたこと等をまとめたものを書きます。
⑴精神(心)が穏やかになる
以前は週単位、もっと言えば日単位でも気持ちのアップダウンがあり非常にそれがストレスでもあるし疲弊していたんだなぁと感じた。
※アップダウンについては、厳密に言えば「イライラ」しやすかったり、「不安や恐怖」に苛まれやすかったりというダウンが頻発で、結果大変なのは何かというと、
その対処に追われる&落ち着いてもまた近い内にはダウンする
という感じ。
この変化については、「閾値の正常化」が始まっているのではないかと推察します。
どういうことかと言うと、これは「依存症」と関係が深い話になりますが、
簡単に言えば、覚醒剤のように超ド級の快感を脳が感じると、脳はちょっとやそっとの快感では満足出来なくなる(=気持ちいいと思えるハードルが上がる)ということです。
これに関しては、遠ざかるしかありません。
ちなみに、以下はこの「快楽を感じる」というシステム(=報酬系)についてと依存についての簡単な説明です。
報酬系は、とても大切な脳のメカニズム
報酬系は、大切な脳のメカニズムです。この部分が刺激をうけると、人は強い満足感、気持ちの良さを感じます。例えば、おいしい食事を食べたときにも報酬系は刺激され、満足感を得ます。更には、良いことをして感謝されるということがあっても、人は満足感を得て、そのときに報酬系は刺激を受けます。
このように報酬系が刺激されると、人は同じような満足感を得たいと思い、そのことをやろうという意欲が出ます。このような、正常の働きの中では、報酬系により人はより生産的で、良いことを繰り返し、更には工夫を重ねてより良い形で行おうとします。
依存ではこの報酬系が乗っ取られてしまう
しかし、この報酬系を努力や工夫によって刺激するのではなく、もっと簡単に刺激する方法があったらどうでしょうか。人は、努力をあきらめて、そちらを求めるようになるでしょう。これが依存の形成です。
努力をせずに、嫌なことを忘れるためにアルコールを飲んだり、覚醒剤などの違法薬物に手を出したりします。また、物質だけでなく、買い物をしてその場の爽快感を得たり、インターネットゲームによって得られる快感を追い求めたりするようになります。そうすると、容易に求められる報酬系の刺激をもっと強くしようということになり、次第に正常な努力や、それだけでなく生活そのものが障害されてしまうのです。
依存が形成されると探索行動もおきる
一旦依存が形成されると、探索行動もおこります。探索行動というのは、依存に関わる物質を探し回るというようなことでで、こう考えるとかなり異常なことのように思いますが、実は、依存は簡単に形成され、探索行動もよく観察されます。
例えば、アルコール依存は容易に形成されてしまいます。毎日、食事のときにアルコールがないと寂しい人は多くいると思います。実生活を阻害するほど有害な依存でなければ、臨床的には問題になりませんし、治療に結びつける必要のないレベルかもしれません。しかし、そういった人でも、家に帰って冷蔵庫にビールがなければ、食事前にわざわざコンビニにビールを買いに行くということもあると思われます。これは、まさしく探索行動です。
依存症が作られる脳のメカニズム - すなおクリニック Q&A
↑より抜粋。
ちなみに、オナニーやSEXにおいて達する「オーガズム」による快感時の脳は覚醒剤使用時の脳と似ているという研究結果もあるようです。
それだけ強烈な快感を覚えてしますと、まずそれをやりゃキモチイイわけだから「やる気がなくなります」
そして、ギャップが生じますから、本来であれば普通の精神状態レベルのはずが、ややマイナスとなり、精神環境のランニングコスト捻出に追われます。
それが頭の方に書いた状態だったんだろうなと自分的には考えています。
⑵睡眠時における中途覚醒が多い&寝起きに困ることナシ
他ブログでもよく見かけるが、22時頃に寝たら大体夜中3時頃に目が覚めます。
眠気眼で目覚めるのではなく、シャキっと目覚めます。
しかし、目を瞑っていればまた眠り6時、7時頃起きるって感じ。
そして起きる時にはついつい二度寝してしまうような状態はほぼ無いです。
もはや起きたいです笑これ以上寝るのはキツイなぁって思います。
ちなみに、元々朝方ではあったが、二度寝はしょっちゅうあるし、なんせ中途覚醒なんてほぼなかったか、おしっこしたいorノド乾いた的なことでした。
いづれにせよ、意識の聡明さに違いが見受けられる。
おわりに
何事においてもそう感じるが、基本的に大きな壁は「習慣」だと思う。
人には進化の歴史の中で培われた強力な「適応能力」≒「慣性力」があると思う。
ことわざではそれを「住めば都」なんて言いますが。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉はクウガの名言の1つですが、その通りで、「習慣」とは大きな力を持つ武器にもなりうるし、人を蝕む毒にもなります。
しかし、その最も苛烈な転換点は40日前後だとワタシは踏んでいます。
(※経験則上)
そして安定期突入が大体90日前後。
まぁ、しかし言うても人。たかが人間の浅知恵。
頭でっかちになると人は本質を見失いがちです。
国々は自ら掘った滅びの穴に落ち、隠して張った網に足をとられる。主が現れて裁きをされるとき逆らう者は、自分の手が仕掛けた罠にかかる。神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に帰るがよい。乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず、御顔を向けて異邦の民を裁いてください。主よ、国々に恐れを抱かせ、思い知らせてください。彼らが人間にすぎないことを。
「もしも愚者が自ら愚であると考えれば、すなわち賢者である。」
ちなみに、ブッダもこのように言っていたようです。
私は宗教家ではありません。
だから、というわけではないのですが、思うことがあります。
第一は「信仰」です。「信仰」という響きが少しキモい場合は「信頼」です。
※私はこちらの方がしっくりです。
じゃあ「信頼」ってなんだろうか。
身体不自由や他にも色々な事情で教会に行けない人は不信仰なのか?
耳も聞こえないし、目も見えなくなり、触覚もなくなり聖書等の情報を得られなくなってしまった人はもう不信仰なんだろうか?
もっと言えば、主を知らない、イエスを知らない人は不信仰なんだろうか?
それは不信仰だ。笑
しかし、じゃあ不信仰はいけないのだろうか?
「信仰」が第一だからいけない?
それは違うと思う。
全てはなんの為に生まれたものなのか。
何に向かっているのか。
それを理解していなければ、「信仰」していようがどうしようもない。
というよりそれは「信仰」ではない。
「信仰」とは「信仰」であって「信仰」ではない。
イエスも言っていた。
形なんかどうでもいいからしっかりカマしてくれ。と
よその事より自分から。