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聖書読解⑨【マタイによる福音書・詩篇】



今回も聖書からの引用からの振り返り、この一週間感じたことを記します。

 

 

 

この1週間感じたこと



「人を裁くな」(マタイによる福音書

1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 
 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
 
 3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 
 4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 
 
5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 
 
6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

⑴「百聞は一見にしかず」であり「百見は一歩目にしかず」

「綺麗事じゃないか」と聖書の言葉に感じていた頃がありました。

ですが、聖書の言葉【※特に新約聖書】というのはそんな浅い次元で言葉を紡いではいないと今は思います。

 

それはなぜか。感じ方の違いは何か。心酔しているから?信仰心が強まったから?

信頼して実践してみたからと個人的には感じています。

 

聖書にも書かれている通り、「百聞は一見にしかず」であり「百見は一歩目にしかず」です。

 



⑵「人間は批判することに快感を感じる?」

 

【人間の脳は誰かを批判することに対して快感を感じる】

 

時としてこのような状態に陥ると言います。

このようなことを「サンクション(制裁)」と言います。

※詳しくはこちらをどうぞ。

toyokeizai.net

 

この話を聞いて「コロナ警察」なんて言葉が思い出されました。

たまに忘れそうになってしまいます。

別に「日本海」は「日本海」なんかじゃないし、

「りんご」は「りんご」なんかじゃないし、

「日本の法律」は「宇宙の法律」なんかじゃないし

「私の正義」は「誰かの正義」とは同じじゃないかもしれない。

 

「理性」を与えられた以上、メタ認知して事象を捉えるのは人間としての「らしさ」を担うし何より「誇り」だと私は思っています。

 

 

詩篇より引用

「寝覚めの良い生を」(「詩篇:18ー21〜28」)

 

21主はわたしの正しさに報いてくださる。
わたしの手の清さに応じて返してくださる。
 
22わたしは主の道を守り
わたしの神に背かない。
 
23わたしは主の裁きをすべて前に置き
主の掟を遠ざけない。
 
24わたしは主に対して無垢であろうとし
罪から身を守る。
 
25主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
御目に対してわたしの手は清い。
 
26あなたの慈しみに生きる人に
あなたは慈しみを示し
 
無垢な人には無垢に
27清い人には清くふるまい
心の曲がった者には背を向けられる。
 
28あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。

 

詩篇はまた新約聖書と違った良さがあるな」と今日詩篇を読んでいて感じました。

一言では表せないが、人間の「生々しさ」が言葉に宿っていて。

 

自分がスローガンとして掲げている生活指針の1つに「寝覚めの良い生」というものがあります。

 

寝覚めの悪いことくらい「うんざり」すること無くないですか?笑

 

私はどんなにたくさんのプラスがあっても、寝覚めが悪いことが心にあると全部パーです。

そして気づいたことがあります。

 

【プラスなんか無くたって「うんざり」さえ無ければ最高】ってことに。

 

自分はそれ(=足るを知る)に気づくまで、「うんざり」を”掻き消す”または”薄めて誤魔化す”ことに辟易していました。

 

「俗欲」はそういう傾向を深層意識に作用させていると考えておよそ間違っていないと思うので、

 

【お金が欲しい】【かっこよく・可愛くなりたい】【ブランド物が欲しい(ステータス欲)】を強く感じ始めたら、一旦立ち止まって深呼吸し、自己をメタ的に観察していただくことをオススメします。

 

【ほったらかした問題の報いは必ず決算の時】が訪れます。

 

「material bitch」じゃこの先無理。by SALU

 

 

マタイによる福音書より引用

「give and give」でいいじゃん(「マタイによる福音書10より」)

 

十二人を派遣する
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 
 
6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。〜〜
 
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
 
9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
 
働く者が食べ物を受けるのは当然である。 11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
 
12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。
 
もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
 
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

エスが12人の信頼できる使徒達に向けた言葉です。

 

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 

そう思います。

 

自分にもまだまだ土着しているが【損得勘定】

何十万年も前からの先祖達がこうして厳しい生存競争を凌いできたのでしょう。

 

しかし、【理性】で支配下に置けないものなど武器でもなんでもありません。

 

案外、手放してみると気が楽になったりします。

 

人間やろう。

 

 

まとめ:人間「らしさ」に誇りを

驕らず、昂らず。なにも知らないし、なにも気付けないまま一生を終えるのが人間の生です。

 

狭い視野に生きていないで、一瞬で散りゆくこの命「広い世界」でどーせなら生きたい。

 

最近は本当に現在の「資本主義の在り方」に疑問を持って仕方ないです。

社会主義がいい、資本主義がいいといった一辺倒な話ではなく、「在り方」に疑問しかないです。

 

資本主義の短所の代表例は「格差が生まれる」なんて言われていますが、基本的に行き着く先が「非人間的」なことに非常になりやすいことが大きな短所だと私は思います。

 

第一、「社会主義」がうまい事いかなかった大きな要因は「平等分配の結果、市場に競争が生まれず経済が著しく衰退したから」なんて聞いて呆れるし、そもそも「非人間的な行為に支えられる市場経済なんかいらない」とさえ思えますが。。

 

まぁ、そうなると、他国に虐げられる、いいカモにされる、etc...

 

国家存亡上マズいんでしょうが。

 

つまり、このように人間を見れば結果「とても高度な知能をもった生物」とは思い難いわけです。

 

なので私は考えます。

 

【ヒトは二度生まれる。一度目は「ヒト」なる形をしたものとして。二度目は内実ともに備えた「人」として】

 

でら からでした。