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聖書読解⑧【マタイによる福音書】

はじめに

今回は新約聖書「マタイによる福音書より抜粋したものと共に自分の振り返りの内容をまとめていきます。

マタイによる福音書1〜5より

⑴試みを受けるイエス
さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が現れて、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 
エスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 
 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。
 
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 
 
エスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 
 
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 
 
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

有名な”40日40夜の悪魔との対話”です。

対話のテーマは3つありました。それに対するイエスの返答は太字にしている部分です。

ここで重要だと強調しておきたい所を1点挙げます。

それは最後の問答です。

※悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



 

如何に人間というものは【欲深い】か。この3つの問答は信仰の上で乗り越えていく為に訪れる【3つの壁】を半メタファーで表現しています。

 

サタンはこれでもかと言った具合で複数攻撃していますが、最後の問いは最大魔法だったのでしょう。万策尽きてサタンは離れていきました。

 

ちなみに、ブッダは欲望について「喉が渇いた時に、海水を飲むともっと喉が渇くようなもの」だと考えていた。

つまり「足るを知らなきゃいつまでも足りない」ということ。

 

「What do you want?」に対して「ワタシナニモイラナイ」と素で言えるつよさ。

これについてNORIKIYOなりの表現が「What Do You Want?」って曲で成されています。

youtu.be

 

⑵山上の説教(=山上の垂訓)

※沢山ある為、一部抜粋

幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
 
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
 
5柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
 
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
 
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
 
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
 
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
 
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

地の塩、世の光
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
 
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
 
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 
 
16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 

姦淫してはならない
27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 
 
28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 
 
30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 

誓ってはならない
33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
 
 34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。
 
そこは神の玉座である。 35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。
 
そこは大王の都である。 36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 
 37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

復讐してはならない
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 
 
39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 
 
40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 
 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 
 
42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」



おわりに【”信教の自由”の欠陥点】

定期的に主と向き合って、愛と向き合って聖書を手にとって感じることは、見知っていた言葉だったりしても何度も読むことで季節のように違った顔を見られること。

 

そして、人は忘れるし、ベースの慣性には欲深く愚かな地がありますからこうして振り返ることも非常に有意性を感じずにはいられない。

 

話は変わるが、浮かんだから書いておく。

少なからず日本には"信教の自由"というものが思想、良心及び宗教の自由ということで憲法で人権の1ジャンルとして保証されている。

 

それはいいことなんだが、自由や余白ができると、崩壊の道もまた開けるというのが鉄板。だからと言ってなんでもかんでも縛りつけていくのも良いわけではない。

 

※学校なんかがその悪い例のパターンで、ヤンキーが授業中にまでゲーム機で遊んでいたり、スマホいじってたりすると、「今まで休み時間の使用は有り」だったルールが、一部のヤンキーのせいでルールを守って活用していた生徒達まで被害を被る。

これは【平等】の履き違えだと思うが、そもそも日本社会が【平等】を履き違えている場面が多い気がする。

 

信教の自由のせいで、いや、【信教の自由を扱えるレベルに達していないせい】でカルト宗教は粗方野放しになって、惨事が起こってから初めて規制対象として取締る。

どんなルールも全ては”気持ち善きことの為”であると思う。

”良きことの為”では無いはずだ。※言葉の綾を掬わずニュアンスを汲み取って欲しい。笑

 

つまり現代でも本質はなんにも変わらずに、ファリサイ派サドカイ派がのさばり、本質を謳う極少数者が端に追いやられているという構造が大体の図です。

 

まぁ、いいや。アイツがこうだ、コイツがこうだ言ってただでさえ刹那の人生を浪費するのも憚りますから、手の届く世界を明るく。手の届く今を生きる