〜最後の砦〜哲学ブログ

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【性について(欲望)⑥】※記録用 25日目

はじめに

この一週間の振り返りと感じたことや考えたこと等をまとめたものを書きます。

⑴精神(心)が穏やかになる

以前は週単位、もっと言えば日単位でも気持ちのアップダウンがあり非常にそれがストレスでもあるし疲弊していたんだなぁと感じた。

 

※アップダウンについては、厳密に言えば「イライラ」しやすかったり、「不安や恐怖」に苛まれやすかったりというダウンが頻発で、結果大変なのは何かというと、

その対処に追われる&落ち着いてもまた近い内にはダウンする

という感じ。

 

この変化については、閾値の正常化」が始まっているのではないかと推察します。

なんの閾値かと言いますと、ドーパミンです。

 

どういうことかと言うと、これは「依存症」と関係が深い話になりますが、

簡単に言えば、覚醒剤のように超ド級の快感を脳が感じると、脳はちょっとやそっとの快感では満足出来なくなる(=気持ちいいと思えるハードルが上がる)ということです。

 

これに関しては、遠ざかるしかありません。

 

ちなみに、以下はこの「快楽を感じる」というシステム(=報酬系)についてと依存についての簡単な説明です。

 

報酬系は、とても大切な脳のメカニズム

報酬系は、大切な脳のメカニズムです。この部分が刺激をうけると、人は強い満足感、気持ちの良さを感じます。例えば、おいしい食事を食べたときにも報酬系は刺激され、満足感を得ます。更には、良いことをして感謝されるということがあっても、人は満足感を得て、そのときに報酬系は刺激を受けます。

このように報酬系が刺激されると、人は同じような満足感を得たいと思い、そのことをやろうという意欲が出ます。このような、正常の働きの中では、報酬系により人はより生産的で、良いことを繰り返し、更には工夫を重ねてより良い形で行おうとします。

依存ではこの報酬系が乗っ取られてしまう

しかし、この報酬系を努力や工夫によって刺激するのではなく、もっと簡単に刺激する方法があったらどうでしょうか。人は、努力をあきらめて、そちらを求めるようになるでしょう。これが依存の形成です。

努力をせずに、嫌なことを忘れるためにアルコールを飲んだり、覚醒剤などの違法薬物に手を出したりします。また、物質だけでなく、買い物をしてその場の爽快感を得たり、インターネットゲームによって得られる快感を追い求めたりするようになります。そうすると、容易に求められる報酬系の刺激をもっと強くしようということになり、次第に正常な努力や、それだけでなく生活そのものが障害されてしまうのです。

依存が形成されると探索行動もおきる

一旦依存が形成されると、探索行動もおこります。探索行動というのは、依存に関わる物質を探し回るというようなことでで、こう考えるとかなり異常なことのように思いますが、実は、依存は簡単に形成され、探索行動もよく観察されます。

例えば、アルコール依存は容易に形成されてしまいます。毎日、食事のときにアルコールがないと寂しい人は多くいると思います。実生活を阻害するほど有害な依存でなければ、臨床的には問題になりませんし、治療に結びつける必要のないレベルかもしれません。しかし、そういった人でも、家に帰って冷蔵庫にビールがなければ、食事前にわざわざコンビニにビールを買いに行くということもあると思われます。これは、まさしく探索行動です。

依存症が作られる脳のメカニズム - すなおクリニック Q&A

↑より抜粋。

ちなみに、オナニーやSEXにおいて達する「オーガズム」による快感時の脳は覚醒剤使用時の脳と似ているという研究結果もあるようです。

 

それだけ強烈な快感を覚えてしますと、まずそれをやりゃキモチイイわけだから「やる気がなくなります」

 

そして、ギャップが生じますから、本来であれば普通の精神状態レベルのはずが、ややマイナスとなり、精神環境のランニングコスト捻出に追われます。

 

それが頭の方に書いた状態だったんだろうなと自分的には考えています。

 

⑵睡眠時における中途覚醒が多い&寝起きに困ることナシ

他ブログでもよく見かけるが、22時頃に寝たら大体夜中3時頃に目が覚めます。

眠気眼で目覚めるのではなく、シャキっと目覚めます。

 

しかし、目を瞑っていればまた眠り6時、7時頃起きるって感じ。

 

そして起きる時にはついつい二度寝してしまうような状態はほぼ無いです。

もはや起きたいです笑これ以上寝るのはキツイなぁって思います。

 

ちなみに、元々朝方ではあったが、二度寝はしょっちゅうあるし、なんせ中途覚醒なんてほぼなかったか、おしっこしたいorノド乾いた的なことでした。

 

いづれにせよ、意識の聡明さに違いが見受けられる。

 

おわりに

何事においてもそう感じるが、基本的に大きな壁は「習慣」だと思う。

人には進化の歴史の中で培われた強力な「適応能力」≒「慣性力」があると思う。

 

ことわざではそれを「住めば都」なんて言いますが。

 

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉はクウガの名言の1つですが、その通りで、「習慣」とは大きな力を持つ武器にもなりうるし、人を蝕む毒にもなります。

 

しかし、その最も苛烈な転換点は40日前後だとワタシは踏んでいます。

(※経験則上)

そして安定期突入が大体90日前後。

 

まぁ、しかし言うても人。たかが人間の浅知恵。

 

頭でっかちになると人は本質を見失いがちです。

 

旧約聖書 詩篇でこのように書かれています。

国々は自ら掘った滅びの穴に落ち、隠して張った網に足をとられる。
 
主が現れて裁きをされるとき逆らう者は、自分の手が仕掛けた罠にかかる。
 
神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に帰るがよい。
 
乏しい人は永遠に忘れられることなく、
貧しい人の希望は決して失われない。
 
立ち上がってください、主よ。
人間が思い上がるのを許さず、御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
 
主よ、国々に恐れを抱かせ、思い知らせてください。
彼らが人間にすぎないことを。

 

「もしも愚者が自ら愚であると考えれば、すなわち賢者である。」

ちなみに、ブッダもこのように言っていたようです。

 

私は宗教家ではありません。

 

だから、というわけではないのですが、思うことがあります。

 

第一は「信仰」です。「信仰」という響きが少しキモい場合は「信頼」です。

※私はこちらの方がしっくりです。

 

じゃあ「信頼」ってなんだろうか。

 

身体不自由や他にも色々な事情で教会に行けない人は不信仰なのか?

 

耳も聞こえないし、目も見えなくなり、触覚もなくなり聖書等の情報を得られなくなってしまった人はもう不信仰なんだろうか?

 

もっと言えば、主を知らない、イエスを知らない人は不信仰なんだろうか?

それは不信仰だ。笑

 

しかし、じゃあ不信仰はいけないのだろうか?

「信仰」が第一だからいけない?

それは違うと思う。

 

全てはなんの為に生まれたものなのか。

 

何に向かっているのか。

 

それを理解していなければ、「信仰」していようがどうしようもない。

というよりそれは「信仰」ではない。

 

「信仰」とは「信仰」であって「信仰」ではない。

 

エスも言っていた。

形なんかどうでもいいからしっかりカマしてくれ。と

 

よその事より自分から。

 

 

聖書読解⑧【マタイによる福音書】

はじめに

今回は新約聖書「マタイによる福音書より抜粋したものと共に自分の振り返りの内容をまとめていきます。

マタイによる福音書1〜5より

⑴試みを受けるイエス
さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が現れて、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 
エスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 
 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。
 
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 
 
エスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 
 
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 
 
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

有名な”40日40夜の悪魔との対話”です。

対話のテーマは3つありました。それに対するイエスの返答は太字にしている部分です。

ここで重要だと強調しておきたい所を1点挙げます。

それは最後の問答です。

※悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



 

如何に人間というものは【欲深い】か。この3つの問答は信仰の上で乗り越えていく為に訪れる【3つの壁】を半メタファーで表現しています。

 

サタンはこれでもかと言った具合で複数攻撃していますが、最後の問いは最大魔法だったのでしょう。万策尽きてサタンは離れていきました。

 

ちなみに、ブッダは欲望について「喉が渇いた時に、海水を飲むともっと喉が渇くようなもの」だと考えていた。

つまり「足るを知らなきゃいつまでも足りない」ということ。

 

「What do you want?」に対して「ワタシナニモイラナイ」と素で言えるつよさ。

これについてNORIKIYOなりの表現が「What Do You Want?」って曲で成されています。

youtu.be

 

⑵山上の説教(=山上の垂訓)

※沢山ある為、一部抜粋

幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
 
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
 
5柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
 
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
 
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
 
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
 
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
 
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

地の塩、世の光
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
 
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
 
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 
 
16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 

姦淫してはならない
27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 
 
28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 
 
30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 

誓ってはならない
33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
 
 34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。
 
そこは神の玉座である。 35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。
 
そこは大王の都である。 36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 
 37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

復讐してはならない
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 
 
39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 
 
40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 
 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 
 
42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」



おわりに【”信教の自由”の欠陥点】

定期的に主と向き合って、愛と向き合って聖書を手にとって感じることは、見知っていた言葉だったりしても何度も読むことで季節のように違った顔を見られること。

 

そして、人は忘れるし、ベースの慣性には欲深く愚かな地がありますからこうして振り返ることも非常に有意性を感じずにはいられない。

 

話は変わるが、浮かんだから書いておく。

少なからず日本には"信教の自由"というものが思想、良心及び宗教の自由ということで憲法で人権の1ジャンルとして保証されている。

 

それはいいことなんだが、自由や余白ができると、崩壊の道もまた開けるというのが鉄板。だからと言ってなんでもかんでも縛りつけていくのも良いわけではない。

 

※学校なんかがその悪い例のパターンで、ヤンキーが授業中にまでゲーム機で遊んでいたり、スマホいじってたりすると、「今まで休み時間の使用は有り」だったルールが、一部のヤンキーのせいでルールを守って活用していた生徒達まで被害を被る。

これは【平等】の履き違えだと思うが、そもそも日本社会が【平等】を履き違えている場面が多い気がする。

 

信教の自由のせいで、いや、【信教の自由を扱えるレベルに達していないせい】でカルト宗教は粗方野放しになって、惨事が起こってから初めて規制対象として取締る。

どんなルールも全ては”気持ち善きことの為”であると思う。

”良きことの為”では無いはずだ。※言葉の綾を掬わずニュアンスを汲み取って欲しい。笑

 

つまり現代でも本質はなんにも変わらずに、ファリサイ派サドカイ派がのさばり、本質を謳う極少数者が端に追いやられているという構造が大体の図です。

 

まぁ、いいや。アイツがこうだ、コイツがこうだ言ってただでさえ刹那の人生を浪費するのも憚りますから、手の届く世界を明るく。手の届く今を生きる

 

【性について(欲望)⑤】※記録用 18日目

はじめに

○オナニー及び性欲に積極的に関与しないという日々の経過記録

○テモテの手紙Ⅱより引用して内容を振り返る

経過記録

⑴目に映るものの解像度がもう一段アップ

経過記録でyoutubeの画質に例えて480または720が1080pになったと書いたが、ここ2、3日くらいさらにくっきりしている感覚がある。

なんか、慣れていない為かゲーム見たいな感覚にも感じる。

今までも1080pの体験は何度も経験していたが、このもう一段の感覚は新鮮。

副産物が得られたからかモチベーションが上がった気がした。

⑵波が段々ビッグウェーブに、かつ狡猾に

性衝動の強さが以前よりも強力になっている。感覚としては凝縮されたパワーで押し寄せてくる。このラインまで突入してくると、理論的な押さえ込みではあまり効果を期待できなくなってきている。

現に、それもあり、何はともあれといった気持ちで筋トレに向かいこの性衝動は事なきを得ました。

そしてもう1つの「狡猾に」という話だが、これは性的欲求を満たさせる為のアプローチ方法が波の周期で切り替わるというわけですね。

これは、本当に興味深いし恐ろしいなと感じるが、具体的には「恐怖心」や「不安」を煽ってきます。

序盤の性衝動は割と安易に「ムラムラ」全面押しでくることが多いが、「ムラムラ攻め」で敗退すると、これでは性衝動に身を委ねないということでなのか「恐怖心」「不安感」といったものの解消の「解決法」として性衝動への傾倒を促してきます。

これは、推測するに、過去に初めてオナニーをした時の経験、初めてSEXをした経験でのとてつもない快感の体験記憶がまずあります。

そして重要なのが、後に私はそれらの経験を応用し、「ストレス発散」「不安の紛らわし」「恐怖心の紛らわし」にオナニーを筆頭に性的欲求を利用していくようになっていきました。

なので、ここの部分でアプローチをしてくるわけですね。(すごい。。)

しかし、改めて思いました。

「感謝しています。」と。。笑

過去に精神的に苦しんでいた時期、性的欲求を満たすことでとりあえず生きるということを助けられていた気がします。

決して良いとは言えない方法ではありましたが。

おそらく、そういった経験を脳は学び、ある一定の実績のある生命維持の方法だとして提示してきているんだろうと思われます。

ポルノ依存、性依存みたいな、あとは嫌悪感を抱いているのに肉欲に負けてセフレだとかオナニーだとかしてしまうという状況の人にこの内容かなり共通しているのでは無いかと思います。

なので私が考えて狙っていることは、ズバリ「経験の上書き」です。

以前の記録でも書いているとおり、「もう私(俺)大丈夫だよ。オナニーやSEX、そのた諸々の事柄なんか無くたって困らないんだよ」ってことを実績をもって脳に提示することが実践的アプローチであるということです。

単純に「異性の存在を認識してある一定レベルでの興奮を覚える」ということは正常でありむしろ必要なことだと思います。しかし、我々はAVやドラマ、マンガや官能小説etcのように「種の保存」大義では無い、つまり「名ばかりの性欲」なるものに溺れている側面があると思います。※そうじゃ無い人もいるから我々は語弊があるかもしないが。

「それの何が悪い!」と思う人もたくさんいるでしょう。笑

そう思う人達はまぁ、なんというかそれでもいいと思います。

しかし、そうは思っていないのにそんな有様な人の現状をこれだけエネルギー込めて自分は問題視しています。

過去の記事での触れてる通り、性的欲求の解消には、「気持ち良い」と脳が感じる様々な脳内ホルモン分泌を起こします。

その為、そこだけをクローズアップして点で観れば、「この世で最も安易に幸せになれる」それが「SEX≒オナニー」です。

しかし、もっとマクロな視点で観察すると、何事も代償がつきまとうというのが真理です。

「宝くじ1等の当選」と「SEXおよびオナニー等性的欲求の解消」は酷似していると思います。

スタンダードを歪め、幸福の域値をバグらせ、奴隷と化します。

「理性という余白」を与えられた意味を問える生を送りたいですね。

 

聖書の手紙シリーズより

若い頃の情欲を避け、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。

テモテへの手紙2−2

 

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。

 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。 

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っているから。

テモテへの手紙2−3

おわりに

強い性衝動が訪れた際に、ちょうど藤本美貴youtubeを見ていたので、「ミキティー 谷間」とか「藤本美貴 おっぱい」みたいに検索した所、そもそも胸があまり大きくないので該当するエロい画像が無かった。そんなこんなの内に、「あー、キモいキモい」とな」となり筋トレに向かうという謎の救われ方をしていました。笑

何度体験しても独特というか、不思議な筆舌しがたい感覚に陥りますね。あのムラムラというかトキメキというかは。

ちなみに脳科学的に言えば、トキメキやムラムラというのは「酒で酔っ払っている」のと同じ状態に脳が陥っているようです。

普段人間は前頭前皮質により、「社会性」を重じて行動しています。

なので、多くの人はエロさを感じても、知らない人のおっぱいを揉んだり、なんなりはしません。

しかし、そういった「社会性」がジャマになる時があります。

それが「種の保存」つまり「SEX」ですね。

ある実験データによれば、不倫をする人は「寝不足」の傾向が強いなんて結果も出ているそうで、つまり、寝不足もこの「理性」を麻痺らせる作用があるということですね。

なので、「よく寝ること」「断酒すること」あとは「筋トレやスポーツ」をして気持ちいい汗を流すこと。

神秘的な話が入ってこない方は、科学的に考えるといいかもしれないです。💨

 

聖書読解⑦【テサロニケの信徒への手紙】

はじめに

今回は「テサロニケの信徒への手紙1、2」より展開していきます。

 

神に喜ばれる生活

淫らな行いを避け、おのおの気をつけて、自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい。神を知らない異邦人のように情欲に溺れてはなりません。〜

ですから、これらの命令を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の精霊を与えてくださる神を拒むことになるのです。

テサロニケの信徒への手紙1ー4

この手紙を書いていた’パウロ’は 西暦64〜67年に亡くなられたとされている。

今からちょうど2000年前くらい。遠い昔のような、つい最近の様ななんとも不思議な感覚になるが、、

※ちなみに...
【西暦1年は、日本は弥生時代後期にあたります】 弥生時代は、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

 

2000年前の人間と、同じ信念を抱いている事実に個人的にはとてもロマンを感じずにはいられない。

記録というものは、非常に有意義なものであり大切なものだなと強く思えます。

月並みな話ですが、芸能人、政治家、一般人とジャンル問わず不倫、猥褻等の話題は事欠かないです。

引用文からわかる通りそしてこれは、時代の垣根も国の垣根も超える「普遍のテーマ」と言えます。

自分もそう書いている今さっきまで、実体無き性衝動の波がそこらへんユラユラしていましたが。。

やはり、これは純粋な異性欲求だけではなく、付随する性的快感(≒エクスタシー)への欲求力だと考えて粗方間違っていないと思います。

そしてなぜエクスタシーを求めるのか。それは「イライラしたり不安だったり」といった欲求不満を解消する為。

「休日一人で家にいる時はムラムラしやすく〜」なんて記事もオナ禁関連のブログによく見かけますが、そんなことよりも、数段、「考え事に耽る」機会が増えるからだと推測しています。

※確かにリラックス空間にいるからという理由もあると思いますが、、

いづれにせよ、そんなことをしても何の解決にもならない所か、神が、愛が、自分(

≒理性)が離れてしまったと感じる程、苦痛なことはありません。

もうそのような肉による身体は、十字架にかけられ、罪と共に滅びました。

それは、自身もまた例外ではありませんので。。

わたしはこの安息に変わるものは何物も無いと悟ったので、どうかあまり試みを強められないでくださいと願うと共に、起こるべきように起こって欲しいと祈ります。

盗人が夜来るように...

主の日は、盗人が夜来るように来るということをあなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ。安全だ。」と言っているときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように。

突如として滅びが襲ってくるのです。決して逃れることはできません。

しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。

ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことは決してありません。〜

ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

テサロニケの信徒への手紙1−5

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。
気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。
すべての人に対して寛大でありなさい。 
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 “霊”の火を消してはいけません。 預言を軽んじてはいけません。
 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
テサロニケの信徒への手紙1−5(後半)



おわりに

どっかの記事でも触れたかもしれませんが、人間は姑息でズル賢く、道徳も倫理もあったもんじゃないからこそここまで知能が発達し進化してきたという一面はあると思います。

しかし、その結果どうでしょうか?

何十万年、何百万年前の先祖が渇望したその「知恵」という力が生み出した「軍事力」により人同士で殺し合いをしています。

なぜ戦争をしているのか。それは相手を許す「寛容」もなければ、隣人を愛する「 愛と勇気」も無いからです。

キリスト教という宗教信仰が絶対正義だとはわたしは思っていません。

しかし、聖書で語られている信念や思想には少なからず人類が向かって欲しい次のステージ、夢があると思っています。

その変遷期に今自分は生きていて、かつ、並々ならぬ思いでその希望に生涯を捧げた先人達のおかげで今の自分でいられてます。

時代を超えて、バトンを引継ぎ、また後世に繋いでいく。

神は勿論のこと、受肉したイエスや、パウロ、その他聖書の登場人物に限らず、個人的に尊敬している、ヒルティーセネカに「おぉ、やるじゃん」って言ってもらえるようになんて思ったり。

「どうか、主があなたがたの心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように。」

 

【性について(欲望)④】

はじめに

最後がいつだったか記憶にないくらい久しぶりに「夢精」した。

それもかなりリアルな感覚の性夢だった。

今までなんだかんだ、オナニーしなくても、性的な妄想に耽っていたりなんなりとしていたが、今回は真剣に捉えているので、夢精という形で肉欲が訴えかけているのかもしれないと思ったり。

というわけで、経過報告をレポートする。

意識がシャキッとしてる

1日を通して意識が覚醒している実感がはっきりとある。
顕著なのは、以前は食後はかなり眠気が強まるので昼にしろ夜にしろ大体その次の行動は寝るという流れだったが今は他のことに取り組める。

※もちろん眠気は来るには来る。

「おっぱい」などに物凄い求心力を感じる場面あり

まぁ、ここら辺に関しては言わずもがなといいますかって感じではあるけど。

しかし、これらはいい加減何度も出会っている波なので自分的には対処可だが、これが意外に尾を引いて、次の休日や土日にオナニーしてしまうといった事例は多いと想像する。

こればかりは、自分のオリジナルの感覚の中で付き合い方を見つけるしかないと感じる。
主に、愛にいられるように祈り願うことが一番容易かつ効果覿面かと。

ーここが重要ー
そもそもこの「肉欲≒煩悩≒罪≒性欲」との向き合い方において俗にいう「オナ禁」という姿勢での望み方は不適切であると考えます。

つまり、「我慢勝負」であるならばそれはもう実質オナニーと同義です。

自分も「オナニー」を「する or しない」で考えていた時期があるが、オナニーはあくまでも「肉欲の帰結である」つまり「ただの結果の形」に過ぎないということ。

聖書もその点は丁寧に、

「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」

と述べている通りである。

その上で、今の自分の見解としては、罪なるものは「瞬発的な部分」ではなく、「能動的に弄んだ部分」だとしている。

つまり、ある異性を見て「ムラッとした」これは罪ではない。

しかし、その後引き続きお尻を見たり、胸を見たりetc,,,その「ムラッ」を2歩目、3歩目と歩んで行くことは紛れもない罪だと考える、ということ。

まぁ、しかし以前は何も考えずまたは良くないとわかっていても肉欲の奴隷となり耽っていた時とは異なり、なんだろう。「休息」を感じられというのがしっくりくる。

まぁ、なんせやっぱ欲情してる時のあの状態ってなんか生理的に不快だし、

自分の一番の理由は、人間には本能というプログラムの他に「理性」という余白を与えられているのに、その理性という余白が本能というautomaticな信号に呑み込まれるなんてことが人間として納得できないから。ですね。

ストレスと性欲は正比例

正直、手の届く範囲に個が最善を尽くせる項目はこの「ストレス」へのアプローチだと考える。

というのも、これは肉欲に向き合い感じたことだが、エロの求心力が高まるのは「イライラ」することがあったり、過去への「後悔」のフラッシュバックや未来への「不安」

こういった事柄が肉欲を誘い込む傾向がとても強いと感じている。

それはおそらく、「オナニー」の快楽物質の分泌に大きく関連していると推測してます。

ここに関しては、我慢というより「昇華≒代替」することが重要だと思う。
というか重要。

ただガマンだけでは、いずれそのダムが決壊してしまうのは自明です。

今まで安易に「オナニー」で快楽物質を出していたところを何か他のことで補うという話。

具体的に自分は「筋トレ」をしています。

これはかなりおすすめです。筋トレじゃなくても体を動かして汗を流すというは本来の姿だとも思う。

その他にもどのような事柄でもいいので、代替してください。

脳みそに「今までありがとな。でも(俺or私)もう大丈夫だから。心配しなくていいからな」ってちゃんと教えてあげることが大切になってくると考えます。

おわりに

大切なことを人は多々見失います。

こと「肉欲」の件についても同様。

大切なのは「たたかい続けること」だと私は言いたいです。

もちろんこれは。自分が折れる為の言い訳とかではないです。

自分の為にも、そして同じような思いを抱いている誰かの為にも
成し遂げようと思っています。

そして、「日数」に関しても経過報告上かいているが、あまり重きは置いていないです。
もうしないのだから数える意味もないわけだし。

誰が見てなくたって「自分と神様」だけは一部始終観てる。

最近自分のおじいちゃんが亡くなって久方ぶりに火葬後の骨を拾わせてもらったのだが思いました。

「人は骨になる身」

現代の平均寿命まで生きたって、たったの80年前後の人生。

何にも持って行けずに、まるで何者でもなく、何も持っていなかった生まれてくる前に戻るかのように人は土に還る。

「寝覚めの悪いことはやめよう。」

これに尽きるとつくづく思わされる場でした。

 

※この筆者は現在「肉欲」と向き合い10日目。

 

 

 

 

 

 

聖書読解⑥

はじめに

日曜日投稿を初めて第6回になるが、今回が今までで最もスッと抵抗なくだなー。

そしてこれは面白いことに、他の事柄においても大体この1ヶ月超えてもう1歩のこの辺りが体に馴染む経験をしている。

もう1つ、主が荒野にてサタンとした貪欲とのやりとりは40日。

つまり「習慣化」の境界線なんだろう。

なんて書きながらに思った。

この「書きながらに思った」によく出会うのはどうやら偶然じゃなさそうだってのも最近レポートを書く機会が出来て感じたことの1つだ。

 

⑴忍耐と寛容を

どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と洞察によって神の御心を深く知り、主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善い行いによって実を結び、神をますます深く知るように。

また、あなたがたが神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、何事にも忍耐と寛容を尽くす様に。

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ですから、あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。

この福音は、天の下のすべての造られたものに述べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となったのです。

コロサイの信徒への手紙より

なんだろう、聖書に限らずだが、セネカヒルティなど哲学者の渾身の言葉達にも感ずることだが、太字にした所の様なこう親近感が湧くようなというか、

パウロもその時分に自分と同じこんな風な思いをしていたのかな」とか
誰にも共感されそうに無くかつ言語化しがたいなんとも言えない部分をドンピシャにブチかましてくれたりするとスゴく救われる。

同時にまた、だからこそ時を超えて同じ壁に向かった、しかも真剣に人生かけた人間が確かにいたんだなんて思えば喜びと同じだけ欲に負けている自分に情けないし、虚しさすら感じます。

だから、こう言うと少しおこがましい面もありますが、自分の尊敬している友や師は既に何百年も何千年も前に亡くなってるケースの方が割合多いです笑

でもそんな風に感じている人はきっと自分だけではない気がしてる。

「生きるってなんだろう」「人間らしさってなんだろう」なんて哲学を模索している人には特に。



⑵キリストにある生活

6あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
 7キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 
8人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 
9キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 10あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
キリストはすべての支配や権威の頭です。 11あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 13
肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 
15そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
16だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 17これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。 
18偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 19頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。
この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
 
コロサイの信徒への手紙より

しかしまぁ、これだけ聖書は言語のみでもこんなに伝わりやすく、しかもなるたけ主旨が偏向してしまわないようにされていても、カトリックプロテスタント正教会だのやってる様を見る限りまぁまぁまぁって感じではありますが。

聖書を考えると見えてくるのは、どんなに論理的に誰にでもわかるよう言語的に記してもそれは奥底には届かないということだと思います。

しかし、これは言葉では。では無く「言葉だけでは。」が正確な解釈だと最近の自分は感じています。

言葉は時に強力で絶大な力を発揮しますが、と思えば場合によっては途端に色褪せて塵と化してしまうそんな性質を含んでいるように感じます。

結果的に言葉に限った話では無い題かもしれませんが、響いてくるのは「過程」ないし「背景」にあると感じてます。

エスも結構な頻度で度々「カタチじゃねーんだよカタチじゃ」といったことに言及しています。

その度に、強烈な賛否をくらってます。

自分も今一度ここで再確認の場としようと思うが、

大切なのは聖書を読むことでも、教会に行くことでも、毎週安息日にこうやって途切れずレポートを書いて主と向き合うことでもありません。

You versionを毎日開くことでも無い。

「愛と勇気」

これがテーマです。

ここにしっかり根を張り歩んでいくならば、聖書は読まなくてもいいし、お祈りをするだのしないだのは手の届かない領域です。

じゃあ、どーでもいいのか。

いや、大事なこと。

人間は愚かだから、すぐに見失うし、わかっていても十字架にかけたつもりだった肉による霊に引っ張られたりするし、トントン拍子は傲慢エンカウント率爆上がりだしetc,,,

なので、最低でも1週間に1回、何曜日でもいいと思うが立ち返る日を設けて、よかった所やこれは良くなかったなど反省して、信頼できる相手がいるならば罪の告白を聞いてもらったりとかそうやって、100%とはいかない不完全な人間なりに、なるたけ清く、聖にいられるようにって。

↑に触れた通り何事も至る「過程」及び「背景」に愛と勇気があれば、どんな形に落ち着こうともそこはあたたかいと思います。

つまり「そこに”愛”はあるんか?」ズバリですね。

しかし、言葉というのは誰でも発せれますから、どの口がおっしゃってもまたはほざいても言いわけですね。

だからそういう意味でも言葉はあくまでも入れ物に過ぎないわけですね。

視るべきは、額面上の意味や形ではない。

「process」と「backbone」自分は大事にしています。



性欲についての記録③

⑴視界が色鮮やかになる

YouTubeの画質 720pを1080pにする感覚。

こんなに建物とかここの景色って色鮮やか、クリアだったっけ、といった感じ。

早朝覚醒

夜は22時頃寝て、朝3時とか4時に起きるといった具合。
また、夜は夜で、筋トレして帰ってきて夜ご飯ガッツリ食べても眠いは眠いが、比較的まだエネルギーに余裕がある感じ。

※これがオナニーしてた頃は、即寝ていた。



⑶押し寄せてくる性衝動

「寄せては引いてく波に置いてけぼりのsunsetあの日の様に」って歌ってるGottzもビックリのレベルで押し寄せてます。

⑴、⑵で書いた様な’メリット’というか’変化’に伴いこれが現れます。

これは肉欲との長い(※約9年)戦い?向き合いの中で気づいたおそらく’真’であろうと思うことの1つです。

つまり、プラスの作用に伴い、それを引き剥がすが如く性衝動も比例してきます

そしてここが性の、肉欲の厄介な部分だと思うが、これが純度100で「性欲」なのかという所。

結論、純度100では無いと思います。

※自分が女ではないので、少なからずというか多分に女性のケースとは流れや感じが異なるとは思うが、マクロでは同じことが起こっているので参考にして欲しい。

まずそもそも、性欲はおそらく「みんなが思っている程強くないし、思っているほど弱くない」

単なる’性衝動’’快楽を求める超正常刺激衝動’が混在してますよってこと。

感覚としては、欲望はこの’性衝動’を巧みに利用してきてなんとかオナニーさせて快楽物質【ドーパミンだのエンドルフィンだのオキシトシンだの】を安易に出させようとしてくる。

※脳内ホルモンについては引用より抜粋しました。↓

◆メリット1:気分を高めるホルモンの放出を促す
マスターベーション中の人体では、複数のホルモンが放出されますが、その中で最も重要なものの1つがドーパミンです。ドーパミンは快の感情や意欲などに関与しているため、「幸福ホルモン」との別名を持っています。




他にも、エンドルフィンテストステロンプロラクチンといったホルモンの働きにより、ストレス軽減や免疫機能の改善が期待できるとのことです。

 

◆メリット2:ストレスを緩和しリラックスできる
セックスの際に分泌されるオキシトシンは、2人の絆を強くするので「恋愛ホルモン」呼ばれることもありますが、マスターベーションでも分泌されるとのこと。2015年に発表されたオキシトシンに関する研究では、オキシトシンが増加するとストレスに関係するホルモンであるコルチゾールの分泌が抑えられ、リラックスにつながることが分かっています。

◆メリット3:スムーズに眠りにつくことができる
「就寝前にマスターベーションをすると寝付きがいい」という人がいます。実際に、マスターベーションにより分泌されるオキシトシンセロトニンノルエピネフリンは、ストレス軽減やリラックスと関係が深いため、眠りに入りやすくなるというメリットもあるとのことです。

gigazine.net

じゃあそもそもね、こんなにオナニーはいいことだってあるんだし、気持ちいいしやめる必要ないじゃん!って思いますか?

人それぞれなんて言ってしまえば終いなんですが、私はNoです。

なぜならの第1位は「神から自分が離れてしまう」からです。

別角度の大きななぜならもあります。

それは「何かを得る為、何か捨てる」がこの人生というゲームの真理であると思っているからです。

掘り下げると、、って書いていた所で集中力が切れたのでまた次回。

 

※これは筆者がオナニーをしなくなって7日目のお話。