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【性について(欲望)⑨】報告レポート

はじめに

記録が久方ぶりとなった。

結論、(脱オナニー58日目)にしてオナニーをした。

その経緯も含め、感じたこと・学んだことをまとめる。

脱オナニー58日目にしてのあっけない敗北

細かい要因は色々だが、結論としては【油断】だった。

情けないと言ったらありゃしないが、ここを誤魔化すと元も子もなくなる気がする。

 

まず記録しておきたいのが、罪悪感というよりもショックが大きいということだ。

 

短いスパンでの中途半端なオナニーの場合、【罪悪感】が割合の多くを占める。

しかし、ここまで無理に我慢してたわけじゃなく且つ約2ヶ月も能動的な性欲から離れていれば、非常に心地良く過ごせるという最大のメリットも肌で感じられる領域まで来ていた上でのことだからショックだ。

 

そして【油断】に繋がる話だが、40日を過ぎた辺りからは、ややしばらく性衝動に苛まれることもなく過ごしていた。

それだけの期間を安息に過ごしていたのは久しぶりだったので、突然訪れた性衝動への対応がおざなりになった。

しかし、それに対する感想としては【そんな足元不安定な状態じゃ遅かれ早かれ崩れたんじゃ、、】という思いでもある。

 

なので、今一度、なぜキモチいいと感じる【オナニー】をしない道を選んでいるのかを確認した。

決してただの我慢ゲームでもないし、オナ禁によるメリットを得たいという機械的ライフハックでもない。

じゃあ理由は何なのか。それは、、

 

【私の成りたい人間がしないこと】であり、【尊敬しているイエスの教え】であり、【私の「声」がそれを望んでいるから】である。

 

ここまで他人には伝わりにくい抽象的な話が続いたかもしれない。

なので、今回のことで深く学んだことを具体的に1つ述べておく。

 

【「意思」とは「無力」だ】

ということ。

 

話の流れ上、「お前が単に性欲に負けただけだろうがw w」とツッコマれそうだが、嘲笑したい気持ちは横に置いて中性的に考えて欲しい。

たかが己の意思に如何ほどの【自制力】があろうか。

今回の件で私が犯した過ちは名付けるならば【驕り】であり、

それによって【油断】が生まれた。そうして【主に祈り願うことを見失っていた】

 

走り出しのワタシは主に祈っていた。そしておっかなびっくり何とか歩んだ先の結果であったのに、自らを過信した。

【人はどうしようもなく愚かで弱い】

これは、全人間に例外はないと学んだ。

 

ワタシは勘違いをしていた。

【今後一切オナニーをしなければ、不定期に湧き出す性欲に能動的に飛びつきかた快楽に浸り溺れなければ偉くなり、神に1歩と言わずとも近づけると思っていた】

 

何よりそれが前向きになれるmotivationでもあった。

その思考回路がミスリードだったと学ばせていただきました。

 

ワタシは主がそれを気づかせてくれたんじゃないかと感じました。

真の過ちとは【二度同じことを繰り返すこと】

「今」にフォーカスを絞り、歩みます。

 

あぁー、難しい。笑

なっさけねー、、

切り替えてこ。

 

以上。

聖書読解⑫ 【マタイによる福音書・箴言】

【マタイによる福音書

⑴「天の国でいちばん偉い者」

1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」

 

2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、

 3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。

 4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

 5また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

 

エス「天国でいちばん偉いのは”自分を低くする者”」と言っています。

一方、地上でいちばん偉い者は、「搾取する者」「偽る者」

 

ここで重要なのは単に「謙れ(へりくだれ)」ということでは無いと思います。

「傲慢になるな」「高慢になるな」「高飛車になるな」ということだと私は解釈します。

 

小さい者のように、幼な子のように、つまり「純粋無垢」に当たり前をただ当たり前にするということ。

 

圧倒的多数の大人が見失っていることです。

「子どもは無邪気でいいよな〜」なんて言っている場合ではないと言うことがよくわかる話だと感じました。

 

⑵「罪への誘惑」

6しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

 

7この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 

8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。

 

 9もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。 

これが優先事項に入っているかいないかでヒトと人に分類分け出来ると思います。

私は「人間」というものは「父親」という存在に成り立ちが似ていると思います。

 

出産したらホルモンによりほぼ自動的に「母親」なる女性とは違い、「父親」というのは男性が「なろうと思って」なるものです。

人間は「二度生まれ」「二度死ぬ」ものと私は考えています。

 

・一度目の誕生は「出産」によるヒトの誕生。

・二度目の誕生は「愛」による人の誕生。

・一度目の死は「心肺停止」によるヒトの死。

・二度目の死は、「誰かも忘れられた」事による消滅死。

この身など所詮は入れ物に過ぎない。

 

⑶「きょうだいの忠告」

 15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。 

 

16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。

 

 17もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 

 

18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 

 

19また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 

 

20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 

 21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

 

 22エスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 

 

23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 

 

25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 

 

26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。

 

 27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 

 

28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 

 

29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。

 

 30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 

 

31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。

 

 32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。

 

 34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。

 35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」

「本当の強さ」とは「許すこと」だと教えてくれた一幕でした。

 

箴言

⑴「プロローグ」

 7主を畏れることは知識のはじめである、

愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。

自分で考えた愚かな権謀術数が何の役に立つだろうか。

 

⑵「父の諭し」

 8わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。 

9それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。

 

 10わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。

 

 11彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、 12陰府のように、彼らを生きたままでのみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。

 

13われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。

 

 14あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、 15わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 

 16彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。

 17すべて鳥の目の前で網を張るのは、むだである。 

 

18彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。

 19すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。

利を貪るほどに一歩、また一歩と「人ならざる者」へと近づいていきます。

その人の目を見れば如何に人間離れしているか分かるし、またその雰囲気やニオイでそれはその人に現ます。

 

単純な資本主義批判だと思われては心外です。

この令和6年、2024年に、世界にまだまだ病気や寿命ではなく、「貧困」が原因で死亡なんてあっていいんだろうか?と問いたいです。

bling-bling(ブリンブリン)とか言ってる知恵遅れに。

しかし持って、愛も「ヒトに真珠」「ヒトの耳に念仏」には気をつけなければいけません。人間ではない、人ならざる「ヒト」が混じっていますから。

【まとめ】

歴史を見ていると「No pain,no gain」とはまさにと感じます。

闇雲に苦しめばいいという話ではなく、「研磨には摩擦が必要だということ」

今の時代、少なからず現日本は「個人主義が歪んでいる」と思います。

「平等」を謳い、「多様性」を重んじた結果どうだろう。

「みんながみんな無責任に言いたい放題、やりたい放題」じゃないだろうか。

金子みすゞさん(本名:金子 テル〈かねこ テル〉)の有名な詩を読むと、

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

金子みすゞさんが言わんとする「みんなちがって、みんないい。」って現代のようなこんなもんだったんだろうか。

※ちなみに金子みすゞさんは26歳で服毒自殺にて逝去してます。
以下wiki引用  

1927年に夫からうつされた淋病を発病。1928年には夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。

こうしたことなどから1930年昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。

みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。

同年3月10日、みすゞは服毒自殺を遂げ[注 2]享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じた。

上山雅輔は回想録「年記」に「芥川龍之介の自殺が決定的な要因となった」と書いている。 遺書を3通残しており、そのうちの1通は元夫へ向けた「あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら,それは仕方ありません。

でも,あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。

だから,母ミチにあずけてほしいのです」という娘の養育を母ミチに託すよう求めるものだった

以上。

【性について(欲望)⑧】※記録用45日目

えー、まずはおめでとう。自分。

とても精神衛生上、穏やかでいられます。

タイミングがとりにくく記事が2週間ぶりとなってしまった。

なのでこの2週間の内容と、まず目指していた40日を過ぎたことについての振り返りも含めまとめていく。

 

 

2週間のまとめ

⑴「反応からの1歩先」に無理して抑えずとも行かなくなった

どういうことかと言うと、例えば生足を出してスカートを履いているJKが視界に入ります。

このように「思わず」目がそちらに向いてしまうのは良しも悪しもないと思います。

もはや、正常であり、引き続きそうであって欲しいと思います。

 

しかし、私が「こんなの嫌だなぁ」と思っていたのは、「初手の性的刺激を皮切りに妄想が膨らんでいき、その性的妄想に耽っていることを楽しんでいる状態」です。

 

以前は、やはりオナニーをしていたり、何らかの形で性的妄想による脳内分泌(ドーパミンやらエンドルフィンやら)を受けていたので、それによる求心力に苛まれていましたが、それからほぼ解放されました。

※ほぼ、と言うのはまだ断定するにはあまりに早計だという懸念です

このように変化できた大きな理由の1つには、「習慣」のチカラだと強く思う。

 

そもそも人間は本当にラクをするように出来ている」

「努力」の難易度の要因にはこれが大きく関わっています。

つまり今の状態から「変わりたくない」のが人間です。

(基、それが人間の脳の初期設定です。)

 

しかし、遷移期間を一度超えてしまえばもう始めのようなストレスはありません。

なぜなら「変わりたくない今の状態」が新しく上書きされたからです。

思考も行動も「習慣」の成せるワザなんだと思いました。

ドーパミン閾値の正常化を肌で感じる

結論から言うと、「感情のコントロールが以前よりもグッとラクに」なりました。

自分はADHD傾向があって、感情の起伏(喜怒哀楽)が激しい子なんだと思っている節もあったのですが、今はそのように捉えていた時とは打って変わってコントロールできる余地が広くなりました。

感覚としては、ドーパミンの基準点が下がったことで、相対的に幸福度が増したことにより、脳の(=CPU)の余裕とストレス減によりコントロール幅が増えたんだと思います。

おそらくコレだって言える程、単純ではなくもっともっと複合的に進化しているので一概に1+1では筆舌し難いのですが、ドーパミン閾値これが「謳歌」のキーワードになることは間違いないと言えそうです。

ー関連記事ー

www.businessinsider.jp

性欲との向き合い45日目これまでの振り返り

概要

ちなみに、1つの基準軸として、オナニーをしないことに関しては、ここ1年間では最長記録です。

※しつこいようだが、オナニーをしたかしないかは本質的な問題ではない為、俗に言う「オナ禁」みたいに日数をカウントしてどうのこうのではないことに注意。

理由は2つ。

①そもそも二度としないと思っているのでカウントすることの無意味さ。

 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 だから。

どうしてあんなに1ヵ月に四苦八苦してどうしようもなかった所からスッと抜け出せたのか改めて整理してみるとキーワードは4つ。

「運動」「神(≒愛)への信頼」「信念」「習慣」

⑴「運動」

かなり大きい。何がいいかってなんせ「天然の自家製 精神安定剤

はっきり言って、SEXよりキモチいい笑

確かに性的快楽はある一部分に突出した攻撃力を有しているが、なんせ諸刃すぎるし、その代償なりの恩恵かと思いきやそれすら虚に過ぎないと言う悲しい結末付き。

私はちなみに、もっぱら「筋トレ」をしています。

これは「置換」にという大事なセクションです。

つまり、「依存」全般に言えますが、何かを取ったら、その枠に何か充てがわなければまた逆戻りするだけです。

「タバコ」でも「お酒」でも「ポルノ」でも「男でも女でも」これは普遍です。

 

そして代用は「運動」が最適解だと私は思います。机上の空論ではなく実践して自分を研究体として確認しているのでより強く言えます。

「神(≒愛)への信頼」

これは「愛」を信頼していなければ成せないことですが、Platonic loveが自他ともに推奨事項なので、そのようにしています。

「愛」がなければ、私も特に何も考えず「いいじゃん、気持ちいいんだから」くらいにしか思っていなかったかもしれません。

⑶「信念」

自分個人のスローガンというか感情として、「理性的でない」こと全般に嫌悪なので、なるたけ「人間」でありたいという思いがあります。

ただ禁欲すればこんなメリットが得られるといった「目的のための手段」ではなく「これが最初から目的」です。

⑷「習慣」

しかし前週に記事を書かなかった言い訳になるが、そもそももう先週の時点で、頑張って書くほどの熱量が失われていた、つまり、もう40日前後で乗り越えた為に自分の中での重要度が下がっていました。

 

まとめ

次に見据えるのは90日後。

私の「習慣」における肌感覚として、40日〜90日間が「残穢」の期間だと思っています。

この間を過ぎれば、「習慣」だった面影はほとんどなくなって行きますが、逆に言えばこの間はまだその気になればすぐに復帰できるような不安定な状態でもあります。

いわば、「消したデータがゴミ箱の中にある状態」が40日過ぎ〜90日前後

今後も引き続き経過を記録していく。

以上。

聖書読解⑪【マタイによる福音書】

 

 

この1週間の中で考えたこと【マタイによる福音書より引用含め】

⑴「どーせ、死ぬんだから」の精神【マタイによる福音書16より】

これは「近畿大学のスピーチ」にて【本田圭佑さん】も言っていたこともあり大事にしている精神です。

 

人間は往々にして、「成功すること」よりも「失敗しないこと」で生き残ってきた側面があるんだと思います。

 

人間の思考体系やその傾向には、基本的に理由およびbackbone(背景)があると思います。

 

※それを推理するのが人間である故に、もちろんミスリードがあることも少なくないと思いますが、、

 

 

よく文明は進化していても、現代人の脳は「何万年も前からあまり変わっていない」と言われます。

 

私もそう思います。

 

しかし、今のところ、狩猟時代のように1つミスが存続に甚大な影響を与えるなんてことはないと思います。(少なくとも当時程は)

 

結局我々に生得的にある恐怖や不安は死から逆算されたものです。

 

つまり、負の感情を辿って行けばそこには必ず「死」があると思います。

 

「死にたくない」から「仲間はずれになりたくない」し

「死にたくない」から「お金がいっぱい欲しい」し

「死にたくない」から「健康に気を使う」し etc...

 

どうしてSNS依存は強大な引力を持っているのかについても、脳は「人間関係」の情報を最優先事項として捉えているからと言われています。

 

※ちなみにあるデータでは、男性よりも女性の方がよりSNSへの依存傾向が強いとなっています。

それは、女性の方が「コミュニティーを大事にする脳(=キズナ脳)の傾向が強いから」ですね。

president.jp

 

しかし、今の時代は狩猟時代ではないです。随分自然界にある自然な「死」からは遠ざかっているように思えます。

 

その環境の変化と脳の初期設定の差異を俯瞰的に捉え、ズレを能動的に補正していくことがLIFEを謳歌する上で活躍してくれるのではないかと強く思う。

 

エス、死と復活を予告する
 
21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
 
 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
 
 23エスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 
 
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 
 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 
 
26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 
 
27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
 
 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
マタイによる福音書16ー21〜28

 

これが(特に赤の太字)現代にマッチする脳のNew standardなのではないだろうか。

 

 

⑵日本は「不安の国」〜セロトニントランスポーターとの関係〜

セロトニントランスポーターとは?」

 

ざっくり言えば、これは脳内でのセロトニンの再利用を担う部分。

これが日本人は世界的にかなり少ないらしい。

 

※記事一部抜粋

中野 日本では、セロトニントランスポーターが少ないタイプの遺伝子の割合は約8割。アメリカは4割ですから、約2倍です。こんなにも差がつくには、400年くらいの年月がかかるんですね。すると400年前、江戸時代の日本には何が起こっていたのでしょうか。

鎖国……ですか?

中野 正解です。ただでさえ島国なのに、鎖国した。人間の流動性が低いですから、長期的な人間関係が続く。藩や村という、自分がいるコミュニティ内でどう生き延びるかがすごく重要だったんです。「生き延びる」というのは、「自分自身がどう生きるか」もそうですし、「遺伝子をどう残すか」という問題でもある。村八分に遭うと、遺伝子を残せませんからね。社会的な配慮ができる、できないが、そのまま遺伝子を残せる、残せないにつながってくる。必然的に、楽観的でリスクをどんどん取る傾向にあるセロトニントランスポーターが多いタイプの血が途絶えてきて、少ないタイプの血が増えていったんですね。

詳しくはこちら。

diamond.jp

 

最近、ブログ記事で脳科学関連の内容が多いのは、自分がメタ認知について重要視しているからです。

 

ここで言いたかったのは「感情に振り回されるな」ではなく、「感情に騙されるな」ということ。

 

何事にも意味があると思います。その時、その場面でその感情が湧いたことにも、その結果どういった思考になり、どのような行動をとったのかまで。

 

しかし、私が強調したいのは果たしてそれが「自分の望んでいる道でしょうか?」ということ。

 

確かに、大はずれではないと思います。そりゃそう。その為のデフォルトプログラミングですから。

 

しかし、能動的にそれをより個性的なニーズに合わせてコントロールできる、それに不可欠なのがメタ認知です。

 

異性との関係1つ、目標達成のアプローチ1つ、デフォルトのままでは何かと困難であったり、達成できないことが少なくないと思う。

 

恋愛で言えば「ときめき」を「ときめき」のまま訳もわからず支配されたままなのと、

「ときめき」を俯瞰的に捉え、今自分の身に何が起こっているのか客観的に把握し対応していくことで大きく変わることは言わずもがなだと思う。

 

 

マタイによる福音書より引用

安息日に麦の穂を摘む

1そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
 
 2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
 
 3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
 
 4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
 
 5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
 
 6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
 
 7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。 
 
8人の子は安息日の主なのである。

 

映画『ワンダー 君は太陽』で

ブラウン先生が「”正しいこと””親切なこと”か悩んだなら”親切なこと”をとれ」

という場面がありました。

※ブラウン先生が初ではないとは思うが

 

※これについて反論というか屁理屈を訴える輩まではカバーできませんので考慮には入れません。

 

当時イエスは、アホなファリサイ派サドカイ派に、「本質を見失っているまたはそもそも本質を理解出来ていない」所に世話を焼いていたんだと思います。

 

その律法は何の為にあるの?その教えは何の為にあるの?

 

この「全ては一体何の為?」と言ったそもそも論というか、逆算というかが出来ない人が多い、というよりそれが「人間」なんじゃないかとすら思えるくらい。

 

原発問題、大気汚染問題、政治腐敗、戦争問題etc,,,

 

深掘りは敢えてしませんが、どれも共通することは「よくする為に良くない選択肢を取るの?」って疑問が浮かぶ所です。

 

私は「理性」を持った生き物が「理性」を放棄している結果としか思えません。

 

だからこそ、そこを否定する為に、私の哲学のテーマは「人間らしさ」≒「理性」です。

 

メタ認知は神様が人に唯一与えてくれた武器?いや「余地」だと思います。

 

この表現は自分でも少しスピリチュアル強めと感じますが、それくらい感動を覚えるものだと思います。

 

 

まとめ

元々匂いフェチだが、最近はより「匂い」にハマっています。

 

香水とルームフレグランス。いい匂いに囲まれているだけでこんなにリラックスできるんだなと思いました。



 

 

聖書読解➓【マタイによる福音書】

日曜投稿も今回で第10回。始めた頃は随意的でしたが今では当たり前のように生活の一部として組み込まれています。自然です。これを”習慣”というんですが。

 

1週間の中で感じたこと、聖書を読んで考えたこと等をまとめます。

 

 

1週間の中で感じたこと

 

⑴「高慢」「傲慢」が眼前の好敵手(ライバル)

自分的にここ最近の(それこそブログを始めた辺りの2〜3ヶ月前から)自分の生活であったり行動、思考は目指している像に過去よりも近い。

 

要因は様々だが、大きくは「肉欲」にかまけずに生きられているのがかなりデカい。

 

なんせ、ここのコントロール不全が精神的ダメージの大部分を担っていたから。

 

しかし、今までを振り返っても決してダメダメだったわけでは無く、「いいぞ〜」って場面も少なくない。

 

しかし、その「いいぞ〜」って状態の匂いに惹かれるようにセットになりがちなのが「高慢」≒「傲慢」つまり「高飛車」だ。

 

いい加減なもので、自分自身が自分自身に打ち負かされている、簡単に言えば自分の逃げ腰で色々うまくいってない(例えば、自分大事にしている条理や哲学に反した生活をしているなど)時は、相手に対しても比較的寛容でいられるのだが、今みたいに軌道に乗り始めると不寛容さが目立ち始める。

 

これは非常に良くない。しかし、過去のパターンとしてはこういう状況の自分にストレスを感じたり、その他諸々でもストレスを感じて、”性的快楽”に逃げ込むという流れなので、大事にしていきたい。

 

今の所の「高慢」に対する手札は、メタ認知】≒【俯瞰して観る】

 

「高慢」になってるな〜っていう【俯瞰】を冷静に持ってそれを受け止め、焦らず考えを煮詰め、咀嚼していく。

 

決して簡単な問題ではないどころか、人類史のテーマレベルの問題なので、焦るどころか【誇りを持って】取り組んでいきたいと思っている。

 

そして、その経過及び帰結をここにまたレポートとして載せ、共有出来たら良しと望む。

 

⑵異常な現代〜電車内での人間はスマホor音楽or寝る〜

ふとJRに乗って周りを見渡すと、スマホスマホスマホ、、、、

 

確かにスマホは”ネット兼 SNS兼 新聞兼 読書兼etc”と複数機能を兼用しているので、100%害されている状況ではないが、90%前後はスマホ支配下にあると言って過言ではないだろう。

 

「最近の若い子はゲームばっかりで、なんちゃらこんちゃら〜〜〜〜」

 

って言ってたあの大人達は15年ぽっちで何処へ??w

 

本当に”老若男女”がスマホ漬けになっているのは由々しき事態だと真剣に思ったし、何よりも「なんておもしろい状況なんだ」と思考を掻き立てられる。

 

これには”脳のネットワークのクセ”と密接に関係があるよう。

 

まず、脳には「CEN」「DMN」という2種類のシステムがある。

※以下、引用は下記サイトより。

www.businessinsider.jp

 

「CEN」とは

セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(以下、CEN)と呼ばれるもので、「こうありたい」とトップダウンで思い描く自分のありように向けて私たちを行動に促してくれます。脳の司令塔とも言われます。

 

「DMN」とは

デフォルト・モード・ネットワーク(以下、DMN)。DMNもわれわれの行動を導いてくれるのですが、トップダウンではなく、過去に自分が振る舞ってきた記憶ベースで行動指針を示します。ある行動をとるとそれに伴うエピソードが脳に刻まれていきますが、その記憶にしたがって無意識的に誘導してくれるのがDMNの働きです。

例)通勤路や通学路で毎回、「次の信号は右で、次は、、」なんて考えなくても無意識に歩いたり、運転してれば辿り着く。

旅行先などで初めての歩く道や運転する路はそうはいかないです。

 

そして、「知らず知らずのうちにスマホを触ってしまう理由について」はこのように説明されています。

 

DMNは記憶化されているのでエネルギー効率がいい。負荷がかからないので脳にとっては非常に楽です。一方、CEN新しい情報処理をすることが多いのでエネルギーをたくさん使います。そのため脳は放っておくと負担の小さいDMNを使いたがるのです。

スマートフォンには刺激的で魅力的な情報がたくさん詰まっています。スマホを使ってこうした情報を得ることを繰り返していると、脳はスマホを触ると楽しい情報を得ることができる」というように快感を学習していきます。

これがさらに進むと、DMNの無意識的な働きにより、なんら求めていない状態であったとしても行動がそちらに誘引されてしまうことが起こります。これが「知らず知らずのうちにスマホを触ってしまう」状態だと考えられます。

 

便利なもの程、扱いは難しいです。

 

物事に絶対的な良し悪しはないのかもしれないですが、果たして「これでいいのか。。?」と感じざるを得ない事は少なくないです。

 

周りを見渡せば、スマホで検索するよりも本質的かつ簡易的に解を提示してくれる。

 

 

聖書を読んで考えたこと(マタイによる福音書

マタイによる福音書10

 

「恐るべき者」

26人々を恐れてはならない覆われているもので現されないものはなく隠されているもので知られずに済むものはないからである。

 

 27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 

 

28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 

 

29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

 

 30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

 

 31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

 

まとめ

人は自分一人では完結できません。

 

セルフで行う【客観視・俯瞰】もあくまで「主観的」に客観視していると言ってしまうこと出来ます。

 

なので、友人や家族といった【信頼している】または【尊敬している】人間の声に耳を傾け、相互補完を行えることが大切だと認識します。

 

この世は「諸行無常です。

 

うまくいったと思ったら転覆し、やれやれ,,なんて思ったらそのおかげで飛躍してetc...

 

いい加減、「常なるものは無いのだ」という真理を内・外共に理解し、

 

「晴れの内から雨天の準備をし、雨天時から雨上がりの準備をしていく」

という思考パターンを「習慣」に組み込みましょう。

 

菜根譚より

 

 

以上。

【性について(欲望)⑦】※記録用 32日目

”性欲について”第7回となりました。

第一段階としての目的地点(40日間の情欲もて遊び断ち)が近づいてきました。

そんな【私の1週間での変化と感じたこと・考えたこと】をまとめます。

 

 

 

【1週間での変化と感じたこと】

①夢精しましたパート2

人体というものは本当に神秘ですね。またはmechanical(メカニカル)だなととても感じます。

 

少なくともオナニーしていた頃はなにがなんでも夢精することはまず無かったですが、しなくなるとこんな短期間(1ヶ月)に2回も起こるんですね。

 

ちなみに、「夢精」の知識として、、、

 

ー概要ー

官能的な内容の夢(性夢)を見て性的に興奮する場合もあるが、性的な内容の夢ではない場合や夢を見ない場合もある。

一般的には思春期に多いとされるが、成人しても夢精をしなくなるわけではない。反面、一生を通して夢精をしない者はまったくしない。

 

ー原因ー

射精を司る精管膨大部の働きは、覚醒中には交感神経の働きによって抑制されているが、睡眠中は副交感神経が優位となることで抑制作用が弱まり[1]、覚醒中よりも弱い刺激で射精に至ることが知られている。

これに加え、以下の2つの原因が重なることで夢精に至る。

 ・精液の過剰ストック ・睡眠中の性刺激

※いずれもwikipediaより

 

このように人体はちゃんと意識的オナニーせずとも、精子の管理等は行ってくれるので、わざわざしなければイケナイなんて話にはならないなと感じた。

 

あとは夢精するにまで至ったことに誇らしさを感じた。

性欲または肉欲に理性が支配されずに歩んだ証として捉えられるのはいいポイントかなと思った。

 

②人体が「オナニー頼り」じゃなくなる

あくまでもオナ禁を目的としているわけではなく「性欲による理性支配からの脱却」を掲げているんだが、その中でやはりオナニーをしなくなったことによる人体への影響が少なくない。

 

そもそも、完全にでは無いが着実ににドーパミン閾値が正常レベルに近づいていっている実感が湧いています。

 

※前々回の「性欲について」でドーパミンと”依存”の関係」について触れているので興味がある方は。

dadera.hatenablog.com

 

なので、やはり依存を脱する上での最大の壁は、序盤

タバコもおんなじですが、、、(ちなみにタバコも同じ理論応用で吸わなくなりました)

 

ちなみに、こんな一説にはこんなデータもあるようで、、

 

あくまでもドーパミンのみにフォーカスを当てているだけなので、厳密には、依存度というか統制の難しさはニコチン<<<<性的交渉だとは思いますが。。

 

覚醒剤が絶望的な数値なのがよくわかりますね。。

 

SEXの5倍。。。

 

「過ぎたるは及ばざるが如し」

 

 

【考えたこと】

「エロい」とは絶対的ではなく、相対的なもの

「エロい」だけの話ではありません。

 

「可愛いくなりたい」「カッコよくなりたい」「ダイエットしてスタイルよくなりたい」etc...

 

どれもこれもくだらない煩悩ですが、これらはそもそも実体はあるんでしょうか?

 

答えは【ありません】

 

なぜならそんなものは人間の認識内ですら相対的なものであり、いわば幻のようなものです。

 

石原さとみ」や「橋本環奈」、「平野紫耀」や「木村拓哉」etc...

多くの人は、「カワイイ!」「カッコいい!」と認識するでしょうが、魚はどうでしょうか?

 

猿は、鳥はどうでしょうか。発情するでしょうか?

 

しないですよね?逃げ出すか襲いかかってきます。笑

 

もし、それらのものが【絶対的な美】であれば、自然界にも共通しますが、そうはなりません。

 

「エロい」というのは、脳にプログラミングされている機能の結果の言語表現です。

 

「エロい」から「エロい」のではありません。

 

それをただ「エロい」としただけです。なぜか?そうでもしなければ男女など基本的には結びつくことはない程度の関係だからです。

 

私は完全な機械ではありませんし、なるつもりもありません。

 

ちなみに、今の所、人間以外の生物はメタ認知は出来ない為、自分俯瞰的に見ることはないと言われています。

 

つまり発情期の哺乳類が、「あー、俺は今、生殖行為をするいいタイミングであり、脳の仕組みにその期間において生殖行為を促す為のプログラムがあり、それが”発情期”となって作用しているからいつになくメスがこんなにも魅力的かつSEXしたいと思うんだな」とは考えられないというわけです。

 

人間は【理性】という「余白」を賜りました。(拙いながらも。)

 

その【理性】のコマンド入力通りに進めずしてなにがニンゲンなんだろうと。

 

それが私の【哲学】であり、未だ死なずに生きている理由でもあるのかなと考えました。

 

まとめ

数えてみたら、一応オナニーをせずにというカウントは今日でちょうど1ヶ月くらいになりました。

ぼんやりと3週間過ぎたくらいから当初の性衝動は落ち着きを見せつつ...みたいな雰囲気でしょうか。

 

まぁ、しつこいようだが日数どうこうではないので(いづれ解放する耐久レースではない)

 

突然ですが、自分は今、26歳の男です。

子どもは子孫として授かりたいなと思っています。将来、子どもに「女に中出しカマして気持ちよかったついでにアナタが受精したよ」

「婚前交渉と快楽交渉は避け、愛するまた尊敬する妻と共にキミに出会う為に手段としてSEXを行い受精して生まれたんだよ」

どっちがステキかは明白です。

子どもに「自分はどうやってこの世に生まれたの?」と純粋に聞かれた時に、純粋に答えられるパパが好きで、だからそうでいたい。

以上。

聖書読解⑨【マタイによる福音書・詩篇】



今回も聖書からの引用からの振り返り、この一週間感じたことを記します。

 

 

 

この1週間感じたこと



「人を裁くな」(マタイによる福音書

1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 
 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
 
 3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 
 4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 
 
5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 
 
6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

⑴「百聞は一見にしかず」であり「百見は一歩目にしかず」

「綺麗事じゃないか」と聖書の言葉に感じていた頃がありました。

ですが、聖書の言葉【※特に新約聖書】というのはそんな浅い次元で言葉を紡いではいないと今は思います。

 

それはなぜか。感じ方の違いは何か。心酔しているから?信仰心が強まったから?

信頼して実践してみたからと個人的には感じています。

 

聖書にも書かれている通り、「百聞は一見にしかず」であり「百見は一歩目にしかず」です。

 



⑵「人間は批判することに快感を感じる?」

 

【人間の脳は誰かを批判することに対して快感を感じる】

 

時としてこのような状態に陥ると言います。

このようなことを「サンクション(制裁)」と言います。

※詳しくはこちらをどうぞ。

toyokeizai.net

 

この話を聞いて「コロナ警察」なんて言葉が思い出されました。

たまに忘れそうになってしまいます。

別に「日本海」は「日本海」なんかじゃないし、

「りんご」は「りんご」なんかじゃないし、

「日本の法律」は「宇宙の法律」なんかじゃないし

「私の正義」は「誰かの正義」とは同じじゃないかもしれない。

 

「理性」を与えられた以上、メタ認知して事象を捉えるのは人間としての「らしさ」を担うし何より「誇り」だと私は思っています。

 

 

詩篇より引用

「寝覚めの良い生を」(「詩篇:18ー21〜28」)

 

21主はわたしの正しさに報いてくださる。
わたしの手の清さに応じて返してくださる。
 
22わたしは主の道を守り
わたしの神に背かない。
 
23わたしは主の裁きをすべて前に置き
主の掟を遠ざけない。
 
24わたしは主に対して無垢であろうとし
罪から身を守る。
 
25主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
御目に対してわたしの手は清い。
 
26あなたの慈しみに生きる人に
あなたは慈しみを示し
 
無垢な人には無垢に
27清い人には清くふるまい
心の曲がった者には背を向けられる。
 
28あなたは貧しい民を救い上げ
高ぶる目を引き下ろされる。

 

詩篇はまた新約聖書と違った良さがあるな」と今日詩篇を読んでいて感じました。

一言では表せないが、人間の「生々しさ」が言葉に宿っていて。

 

自分がスローガンとして掲げている生活指針の1つに「寝覚めの良い生」というものがあります。

 

寝覚めの悪いことくらい「うんざり」すること無くないですか?笑

 

私はどんなにたくさんのプラスがあっても、寝覚めが悪いことが心にあると全部パーです。

そして気づいたことがあります。

 

【プラスなんか無くたって「うんざり」さえ無ければ最高】ってことに。

 

自分はそれ(=足るを知る)に気づくまで、「うんざり」を”掻き消す”または”薄めて誤魔化す”ことに辟易していました。

 

「俗欲」はそういう傾向を深層意識に作用させていると考えておよそ間違っていないと思うので、

 

【お金が欲しい】【かっこよく・可愛くなりたい】【ブランド物が欲しい(ステータス欲)】を強く感じ始めたら、一旦立ち止まって深呼吸し、自己をメタ的に観察していただくことをオススメします。

 

【ほったらかした問題の報いは必ず決算の時】が訪れます。

 

「material bitch」じゃこの先無理。by SALU

 

 

マタイによる福音書より引用

「give and give」でいいじゃん(「マタイによる福音書10より」)

 

十二人を派遣する
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 
 
6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。〜〜
 
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
 
9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
 
働く者が食べ物を受けるのは当然である。 11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
 
12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。
 
もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
 
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

エスが12人の信頼できる使徒達に向けた言葉です。

 

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 

そう思います。

 

自分にもまだまだ土着しているが【損得勘定】

何十万年も前からの先祖達がこうして厳しい生存競争を凌いできたのでしょう。

 

しかし、【理性】で支配下に置けないものなど武器でもなんでもありません。

 

案外、手放してみると気が楽になったりします。

 

人間やろう。

 

 

まとめ:人間「らしさ」に誇りを

驕らず、昂らず。なにも知らないし、なにも気付けないまま一生を終えるのが人間の生です。

 

狭い視野に生きていないで、一瞬で散りゆくこの命「広い世界」でどーせなら生きたい。

 

最近は本当に現在の「資本主義の在り方」に疑問を持って仕方ないです。

社会主義がいい、資本主義がいいといった一辺倒な話ではなく、「在り方」に疑問しかないです。

 

資本主義の短所の代表例は「格差が生まれる」なんて言われていますが、基本的に行き着く先が「非人間的」なことに非常になりやすいことが大きな短所だと私は思います。

 

第一、「社会主義」がうまい事いかなかった大きな要因は「平等分配の結果、市場に競争が生まれず経済が著しく衰退したから」なんて聞いて呆れるし、そもそも「非人間的な行為に支えられる市場経済なんかいらない」とさえ思えますが。。

 

まぁ、そうなると、他国に虐げられる、いいカモにされる、etc...

 

国家存亡上マズいんでしょうが。

 

つまり、このように人間を見れば結果「とても高度な知能をもった生物」とは思い難いわけです。

 

なので私は考えます。

 

【ヒトは二度生まれる。一度目は「ヒト」なる形をしたものとして。二度目は内実ともに備えた「人」として】

 

でら からでした。